よい病院、よくない病院の見分け方[石井友二]

マネジメントの巧拙が、病院の良し悪しを決めます。多くの病院コンサルティングの成果をお伝えし、自院の運営に役立たせていただくことを目指します。職員がやりがいをもって働ける環境づくりも、もう一つの目的です

人のために生きているのか

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毎日仕事をしていると、誰もがそうであるように、目の前にある仕事に我を忘れて没頭することがよくあります。

 

そのようなときは、仕事の目的を達成したい、決めた時までに求められる質を以て、クライアント(取引先)に応えたいという湧きあがる思いが、強いモチベーションになっています。

 

他には何も考えていません。

 

また、新企画をスタートするときも、やはり目的達成のため、必要な何かを学習したり研鑽して自分に力をつけ、またスタッフに協力を仰ぎ、なんとか彼らに報いていこう、組織を守ろうとの思いをモチベーションにしています。

 

なので、日々のルーチンや新しい仕組みづくりで思うことは、

  • 取引先に満足してもらうこと
  • 自分が力をつけること
  • 社会に役立つ価値をつくりたいということ
  • 組織をこうしたいということ
  • 仲間にこうなって欲しいということ

だということになります。

 

整理すると、私は仕事をするときに、

  • 取引先のため
  • 自分のため
  • 社会のため
  • 組織のため
  • 仲間のため

に働いていると認識しています。

 

なお、家族のために懸命に働こうと敢えて確認はしなくても、その思いは人として、また家長の責任として自明の理であり所与として捉えています。それをモチベーションにはしていません。

 

さて、私は学生時代までは、自分がこうしたい、こうなりたいという思いで、たぶん自分を中心に物事を考えていました。

 

せいぜい家族や友人との交流や部活のなかで、相手や後輩を思いやることはあったものの、「人のために」ということへの意識はそれ以上ではなかった気がします。

 

ただ、社会人ともなれば、価値観の相違や濃淡はあっても「利己のためではなく利他のために生きよう」「誰かのために生きることが人として素晴らしい」と敢えていわれなくても、皆自然に周りのことを考えて生きているのだと認識しています。

 

実際のところ、利己の意識だけで生きている人がいるのか疑問です。相互依存関係にある社会の中でもし、その生き方が透けて見えれば、たぶん誰も一緒に仕事をしたいと思わないからです。

 

少なくとも私の周りにはそうした人は見当りません。

 

ただし、私の思いが本当に実効性のあるものなのか、人のためになっているのかと問われると、とたんに自信がなくなります。

 

自分の力量や仕事の社会性、(仕事・仕事以外での)社会貢献の実績、組織の優位性確保やスタッフに対する働きかけ、はたまた家族への対応が、果たして十分なのか、といわれれば心許ないのです。

 

「人のために生きる」という思いや行動は自分にとり当たり前のことであったとしても、本当に人のために生きれているのか、といわれればとたんに不安になるのです。言うは易し行うは難しということだと思います。

 

結局のところ、「人のためになっている」と自分が納得し、また周りが認めてくれるようになるためには、より具体的に確認できる成果を挙げなければならないのだと思い直します。

 

価値ある仕事をしている、皆の役に立っている、周りにいる人が皆喜んでくれている、という領域にまで自分を引き上げていく行動が必要です。

 

どうすればそうなれるのでしょうか。

 

何かをするときに相手の立場に立ち、物事を進めていくだけでなく、突き詰めていうと自分が今の仕事に精通し、力をつけて、組織や社会に不足するもの、周りに求められているものを、より高いレベルで創り出していかなければならないとの結論です。

 

もちろん0・100ではなく、人のためになる取組みのために日々精進するなかで徐々に思いが成果に収斂していくのだとすれば、瞬間瞬間、そして毎日の積み重ねがとても大切に思えてきます。

 

ところで「利他」には、ある者の善行で得られた功徳により他者を救済するという意味があるそうです。

 

その境地には一生到達できませんが、まずは、今まで掲げていた少し色あせた感のあるビジョンの再構築を行い、「やらなければならないこと」を仲間と共有します。

 

その実践こそが周りの人の喜こびであると信じ、果敢に行動していきたいと、いま考えています。