主観とは、人が対象について認識・評価などを行う意識の働きをいいます。客観とは、自分の立場から認識や評価などを行うのではなく、第三者としてこれを行うことをいいます。客観には、データ、公平、公正、事実などといった事柄がかならず付随しています。これらのスクリーニングを経て初めて客観が担保されます。
何かを行うときには常に客観をイメージし、自分の考えや思い込み、価値観だけで行動することは戒めなければなりません。主観ではなく客観を常に軸に行動することが成功の要諦なのです。
しかし客観が真実ではないことがあります。あるものに対するデータ、公平、公正、事実などが、客観を用いる者の主観により決まってしまい、必要とする事実が完全に網羅されたなかでの結論を確保できないからです。
例えばマーケティングが良い例です。消費者のニーズや環境、競合、当該対象となる商製品サービスの適正な価格、量、時期、要素などについて客観データを以て結論を出そうとしても、調査の範囲や抽出するデータの着眼、種類、深さなどの判断は主観で行うし、その結論を公平、公正に評価するのも主観、そしてマーケティングの結果が事実であると確認するのも主観なのです。
となると客観ではなく、客観的という言葉の「的」に意識が向きます。「~的」は「~に近い」「~のようなもの」の意味であり、まさに「~そのもの」を指すわけではないことに気付きます。なので、客観的にみて、というのは客観そのものではなく、客観に近い、客観のようなものという理解を以て「これは客観的な結果です」という使い方をすればよいことになります。
同じように「~的であること」を意味する「~性」についても「これには客観性があります」という使い方をすることで客観を取り扱えばよいということが分かります。客観的や客観性、という言い方で、我々は行動している、という結論です。
なお、主観についてもそれがいつもブレない不動のものではなく、信頼に足る地位を確保しているわけではないことから、客観に対し常に同じ影響を与えるものではないとすると、導かれた結論が客観であることはより困難になるという見方もできます。
なぜ、このような検討を行ったのかということには理由があります。
最近、ある会社の役員で尊敬している人が「何かを始めるときにはかなり用意周到にマーケティングを行い本当に可能性のあるものしか予算を付けない。さらに練りに練った対象にチームの全パワーを投入することにしている。ただ、それでもうまくいくことは稀で、ほとんどが失敗する」と話していたからです。
何かを始めるときには始めからうまくいくこととはなく、仮にMECE(漏れなくダブりなく)を意図しロジカルに手順を踏んで行動を開始しても、当初の思いや調査への信頼を100%としてはいけない。試行錯誤を繰り返し、仮説、検証の蓄積のなかに到達点への道筋が見えてくることを再確認しなければならないのです。客観的、客観性の限界を知らなければなりません。
私も振り返ってみると採用してきたいくつもの戦略や戦術の過去は「死屍累々」という状況であることが分かります。そのなかに「地道に行うべきことを行い続けることで、何とかできた」ことがほんの少し残っているという状況がみえてきます。
当たり前の議論ではありますが、何をするにしても、自らの思いや信念を以て主観的に到達点を決め、現状分析を行い両者のギャップを発見し、そのギャップを埋める方法を客観的に網羅し、短いスパンでPDCAに乗せて行動する。それらを繰り返し行うなかで、方向を修正したり行動を見直し、またプレイヤーを代えるなどの対応をしていくことが大事だと理解できます。
いまも複数の新規事業が遡上に乗り準備を始めていますが、厳しい時代を迎え自分や組織行動を反芻し客観のトラップ(客観を大事にすればうまくいく筈と思い込む罠)に留意し、行うべきことを行うなかで既存事業の成長を継続しながら新しいことに挑戦していきたいと考えています。