よい病院、よくない病院の見分け方[石井友二]

マネジメントの巧拙が、病院の良し悪しを決めます。多くの病院コンサルティングの成果をお伝えし、自院の運営に役立たせていただくことを目指します。職員がやりがいをもって働ける環境づくりも、もう一つの目的です

過ぎ去る時間を慈しむ方法

昨日の朝、2日間の仕事を終わ札幌から、朝一便で東京に戻り、浜松町で監査法人のミーティングを30分。そして又空港に戻り福岡に向う機上にいました。

たった1,2時間のなかで、羽田と浜松町を往復したのです。そこでいくつか気がついたことがあります。

まず、空港は旅行者で溢れていること。
明らかに仕事ではない団体やカップルがたくさんいて、平日の午前中にこれだけの(とても定性的ですが、あとで利用者のデータをチェックしなければならないですね)旅行者がいることに少し安心しました。経済の疲弊が議論されているときに、これだけの人が動いていることにほんの少しだけ心が和んだのでした。


そして、浜辺です。モノレールが空港からトンネルを抜けて表に出ることろの左側に、都心にながれ込む川に繋がった小さな海岸があります。いつもはなぜか潮が満ちていて砂浜を見た記憶がありません。今日は風が少しつよいのか、波が立っていて、砂浜に幾重にも波が打ち寄せていました。穏やかというよりも、少しだけ主張している感じがした波でした。

そこに人がしゃがみ込んでいて、貝を拾うような仕草をしています。東京のこんなところに小さな砂浜があり、そこが波に洗われ、人が貝を拾う。とても牧歌的というか、のんびりしている気がして、微笑ましいと、ほんのちょっとだけ感動したのでした。
しかし、モノレールは、その海岸を見せてくれる数十秒の時間をあっという間に通りすぎてしまいました。

ほどなくすると東京競馬場です。モノレールから見下ろすとことに厩舎があり、たくさんの人が馬の世話をしていました。時間的なこともあるのでしょうが、気がつかないところで秩序正しく仕事が行われ、日々規律ある生活があるということに改めて皆が生活していることが感じられ、また馬が餌を食むところをみることができたことと重なって、またまた優しい気持ちになれました。

本当に馬が好きな、また競馬が好きなあるいは、競馬を自分の人生と重ねて働いている人がたくさんいるんだろうと勝手に想像を膨らませ、普段私たちが接していない分からない世界がいかに多いことだろう、と思ったのでした。

次に分かったことが、モノレールが、かなり便利になったこと。
空港快速だの、なんとか快速という表示がたくさんあることです。

いつもモノレールを使っていますが、短時間に往復することはあまりなく、短い時間に移動したからこそ、その便利さに改めて思い知ったということでしょうか。
とても早く、あっという間に空港についてしまう。従来モノレールのポテンシャルはあったけれども京浜急行との競争になり、いろいろな企画や創造をしてきたこととの証左であると考えます。

結局のところ、ながいあいだモノポリを経て、競争が必要ななんだということでしょう。何事も危機感をもち、闘いに勝とういうことのなかから価値が生まれるんだということを再確認しました。

携帯のすごさもいつも感心することで、チケットなしに携帯をかざして搭乗するということは当たり前としても、携帯があれば大抵のことは済んでしまうことの素敵さは表現できないものがあします。

で、それにPCです。
また、発見として、空港での時間がとても有効に使えるのは、PCのネットが使える環境があるお陰であることも感じました。いたるところにLAN環境があり、すぐにネットが使えます。

大きな文章や資料携帯では勿論送れないのですから、やはりPCネット環境が整備されることはとても助かります。今日はよくよく周りをみることができたので、その事実をより強く認識することができたのでした。

結局のところ、あたりを見渡しいろいろと見てみることはとても大切で、心の余裕というよりも、意図的な視点により自分の周りをよく確認する、物事の「なりわい」を見直してみるということが必要だということが結論です。

空港とモノレールがただ通過するだけの場や手段だけではなく、いろいろなことを教えてくれる媒体であることに気がつけば、短い時間でもわくわくしえ使うことができる。瞬間瞬間の気づきを楽しめることがわかりました。

いつもは、モノレールや空港で、短い時間だけれどもPCを開いてメールをチェックしたり、スケジュールの確認をしながら、実施事項を書き出したり、携帯メールをしたり、本を読んだりしてしまう時間を、その場に合った使い方に変えていくことが必要だと気がついたのです。

過ぎ去る時間を慈しむよう、時間の瞬間、瞬間を見逃さず、ほんの小さな何かを発見していくことで心を躍動させる…。そこでの気付きを他の場面で利用する。それらが相乗的に行われることで、時間は密度を濃く、そしてより有益な流れに昇華されていく。

とりたてて目的のない時間を過ごすとき、時間を時間としての価値だけではなく、環境との連関のなかで捉え、その環境をも含んだ空気のなかで生活することが「時間を慈しむこと」であると定義しようと思います。