よく成果主義に基づく評価制度は医療になじまない、という話がある。しかし、実際に評価がない活動から何か価値を生むことができるのかどうかを考えてみる必要がある。
人は他人から見られて自らの行動を変容させるといった考え方がホーソン実験である。出来高給をもってモチベーションをあげようとした時代からしばらくたち、人がどのようにすれば働くのかという考え方が芽生えるきっかけとなった。
いろいろな見方がある経過ではあったが、その後、管理論は誘因という考え方にシフトしていく。結局人は誰かから認められたい、何かを実現したいという欲求をもち、仕事をしているというながれができあがってくる。
リーダーシップの良しあしが組織のアクティビティをたかめていくという考え方も併せて議論され、人間の属性をとらえたマネジメントの在り方が検証されることとなった。
評価を行うということは、ある者を観るということである。組織の思想や業務そのものをルールとし、又標準化し、当該ルールや標準に基づいて組織構成員を「観る」。結果、どこに乖離があり、不足しているところがあるのか、またどこが凌駕し、すぐれたところがあるのかについて一定の結論を得ることができる。
「観る」者(評価者)の質を高め、均一化し、公平公正な結果が得られるよう訓練を行う。場合によれば「観られる」者から「観る」者の評価を行うことも含め、できるかであるべきかたちで評価できるよう組織が誘導する。
結果、課題やすぐれた点が発見され、教育の対象となり、育成が開始される。評価者と被評価者が相互に評価基準を媒体にコミュニケーションを行うことができ、または新たな修正行動を開始することができるようになる。もちろん、評価者は自らの評価が正しかったのかどうか、自ら反芻するだけではなく、結果として成果があがるよう指導するなかで、実感として感じる経験を得る。
評価制度があることで、上司も部下も、観たり観られたりする環境を組織的に得ることができ、そして何かに気付き、何かを始めることができる。これが評価制度の大きな効用である。
成果主義は人間の行動を歪曲し、組織が求めている和や安定性を阻害するという説明は、すでに敗者となった日本的経営の残渣でしかないことを知らなければならない。
「観る」者、「観られる」者それぞれが刺激のなかで組織目標を達成するため自らを自覚し、自らの成長を楽しむなかで、結果として処遇される。処遇をもってのみ評価の結論としかしない組織はしたがって評価制度のメリットを得ることができないばかりか、評価制度に対する批判を正当なものとする犯罪を犯すことになる。知見をもたない、浅い、教科書的な制度導入をする不幸なトップの行動の結果である。
聡明な組織人は人の本能を知り、どのように彼らを鼓舞し具体的に成長を促すのかを知っている。形式ではなく実質、概念ではなく本質をどれだけ追求することができるのか、多くの病院トップは自らの覚悟をもって、いまこそ行動を起こさなければならないのである。