誰もいなくなった街で一人で生活するストーリーの映画を観たことがあります。
もちろん、映画なので、実際にはどこかに人々は隠れていたり、住んでいたりして、最終的には一人ではなくハッピーエンドで終わるのですが、私も朝早く電車に乗るため駅にくると、誰もいない自分一人だけだという錯覚に陥ることがあります。
人はいるけれどもまだ本格的に活動していない。そんな時間帯はまったく人が存在していないのと同じ状態です。この駅のホームに着いたときも、そんな感覚を一瞬だけもちました。
世界が最期を迎えるとき。
たぶん、よほどの飢饉や戦争により地球が人為的に破壊されないかぎり、太陽の崩壊とともに地球の寿命が尽きるのは、ほぼ50億年後です。
そのときには、容易に想像出来ますが、驚くべき科学が発達していて人類は別の天体で生き抜いているかとも思うものの、もし急に人がいなくなれば、こんな感じになっているのではないでしょうか。
で、訳がわかって誰もいないのと、あるとき気が付いたら自分以外突然誰もいなくなっているのでは随分と状況は異なります。朝起きてみたら急に誰もいなくなったら恐怖以外の何ものでもないですね。
実際、発電所に人がいなくなれば電気はしばらくすれば止まりますから、駅が明るいはずもありませんが瞬間に人がいなくなればここで観ている状況なのでしょう。ゾクっとします。
すぐに我に帰り、自分は一人ではなく多くの人とともに生きていることのありがたさを知ります。
しかし、よく考えてみると、いま多くの人々に支えられて生きてはいるものの、結局は最期は一人で判断し、一人で行動しなければ誰も助けてはくれない、という状態に私たちは置かれています。逆に自分は実は一人である、という自覚と覚悟があるから多くの人々の支援はありがたいし、優しい気持ちが身に染みるのだと思います。
他者から受ける支援や、他者と自分との関わりが当たり前であると思ってしまうところから不満や不平、そして自立できない自分が生まれるのではないでしょうか。
人として規律と責任を持った行動がとれる人間力をもつ。自立し自我があるからこそ、他者との関わりが意味をもってくるし、そうした自分を意識できることでメリハリのついた(自立した)他者との関係(連帯)ができあがるのだと思います。
依存するのでも頼るのでもなく、まずは自立し人の役に立つ。その後成長し進化しつつ、相互にフラットな関係をつくりあげるからこそ、他者との関係は長続きするし、切磋琢磨も成り立つと思います。
何の利害関係もない家族や友人との関係を考え支え合う気持ちを醸成し、プライベートやビジネスでの関係を考えると、よりよく相互関係が構築できると思います。
仮に利害があったとしても自分の役割と責任を果たすことで利害を超えて相手の役に立ち、まだ高め合えるからです。
それが相手に伝わり信頼が生まれ、「支え合う」関係が生まれるのではないかと考えています。「支え合う」(Support each other=SEO)のは、決してgive&takeのような「あげるね」(giver)「あげるのと、もらうのをバランスしよう」(matcher)というギスギスした関係ではありません。
ビジネスでいえば事業の利益を確保しつつも、相手にとって最適解は何なのかを常に考え、最大の行動をもって目的を達成する。時には利益を度外視して懸命に支援することもある。ある時には逆の立場になることも、ならないこともあるけれど、制約の中でそれができる自分の成長や進化に喜べる。「支え合い」はそんな状態を意味しています。
先の見えづらい環境、SEOのより一層の強化でニューノーマルを乗越えていく必要があります。
何にしても自立できなければ「支え合い」による関係(連帯)は成立しません。
自立し続けるための、課題をもった日々の戦略的な自分づくりが求められているのです。
ホームに立ち、ほんの少しの時間、そんな思いが脳裏に浮かびました。いま、清々しい一日が始まります。