漠然とした不安がときどき脳裏を過る、明確な不安がある、押しつぶされるほどの不安を抱えている等、不安の程度の差はあるとしても、今私たちが置かれている状況に、不安のない人はいないと思います。
ただ、一方で不安があるからこそ、それを原動力として「未来への希望」をもち、次に進もうという人も多いと思います。
希望には将来に対する期待という意味があるので、「未来への希望」は重複表現になりますが、現状への忌避感が強いなか、敢えて「未来への」と書きました。
これからの不安と未来への希望をどのようにバランスさせていくか、また期待が不安を凌駕するよう考える必要があります。
現状やこれから先にある不安と、未来は絶対にこうなることが望ましい、すなわち未来に対する期待を考えるとき、不等式でいえば不安>期待から、不安<期待に変えていかなければなりません。
コロナに抗い、不安を小さくできる人も、それぞれの事情により問題解決できず、不安を小さくできない人がいるとしても、「期待」をできるだけ大きくするよう行動しなければならないのです。
ここで留意するのは、ただ「こうなって欲しいという期待」を持ちましょう、という文脈で説明していないことです。
将来に対する期待は、自分の行動変革でしか成し遂げられないと、しっかり認識する必要があるのです。
コロナ下で身近に困っている人がいれば支援するし、また機会を得て地域での必要な活動への貢献を行うのはとても尊いことです。
しかし、同時に自分が将来のためにいま何をすべきなのかを考える時期が来たのも事実です。
コロナを不安のなかでやり過ごすのではなく、また、乗り越えようとしてモグラ叩きをするだけではなく、
- コロナを機に自分の何を変えればよいのか、
- コロナの後にどのような人生を歩んでいくのか
を考え行動しなければならないのです。
ここにすなわち、
- いまのうちに足元を固める
- コロナ明けのための準備を怠らない
の二点について徹底する必要があります。
「なんとなく」行っていたことを「ちゃんと」やることで、この二点をクリヤーします。
ここで「なんとなく」は、言動にはっきりとした目的がないさまをいいます。
もともとの目的はあったのに、それをいつのまにか忘れ、曖昧なことにも気付かず物事を進めてしまったり、そのことに気付いていても、さまざまな理由により是正できずに過ごしてしまう、というのが的確かもしれません。
振り返ると、そうして「なんとなく」日々を過ごしていることが思い起こされます。
一生懸命やっているけれど、エッジのところで何かを「なあなあ」にしていることがあるのです。
まあ仕方がないな、とか、しょうがないと、ある意味無難にことを荒立てずにいこうといった気持ちもどこかにあるのかもしれませんね。
しかし、全ての景色が一変した時代、そうした対応では今を乗り越えられないことは明らかです。
- 課題と考えるすべてを洗い出し、
- 優先順位をつけ、
- 一つひとつ解決
していかなければなりません。
ちゃんとやる必要があるのです。
「ちゃんと」は、微塵も乱れなく整っているさまをいいます。ちゃんとには、結果が十分であることや、すばやく動作するという意味もあります。
今こそ、しっかりとやるべきことをやる、という意識で行動しなければなりません。
そして、コロナ明けに何をするかを決め、ちゃんと準備をします。
もちろん、課題を解決し足元を固めることは次に進むステップの一つですが、改めて「未来の希望」づくりに果敢にチャレンジするのです。
何をしたいのか、どうなりたいのかは一人ひとり異なりますが、コロナ後にはこんなことをしたい、こんな自分になるとの思いを拠り所に、「なんとなく」、おぼろげに未来を描くのではなく、「ちゃんと」計画し自ら期待に応える日々を創り上げていくのです。
やりたいこと、やらなければならないことへの思いや信念、執着があるかどうかを自分の胸に聴いてみる必要があります。
不安を抱えながらなんとなく時間を浪費してしまうのか、ちゃんと対応し成果を挙げて成長するのか、どちらを採用するのかは自分次第だということを再認識しなければならないと覚悟しています。
なお、心理学では、期待行動は不安を解消する唯一の方法であると説明します。
ちゃんとするための行動は、不安を小さくすることで、不安<期待から、その差をさらに大きくすることに繋がるんですね。
なんとなくから、ちゃんとへの時代を迎えた今、行なうべきことを整理できたと考えています。