よい病院、よくない病院の見分け方[石井友二]

マネジメントの巧拙が、病院の良し悪しを決めます。多くの病院コンサルティングの成果をお伝えし、自院の運営に役立たせていただくことを目指します。職員がやりがいをもって働ける環境づくりも、もう一つの目的です

時間の価値を明らかにする

組織の経営資源はいうまでもなく、ヒト、時間、情報、カネ、モノですが、このなかで客観性があるのは時間とカネだけです。

 

もちろん優れたヒトについても評価基準はあるし、情報にも客観性がないとはいえず、モノも購入品は機能や価格にも客観性はありそうです。しかしヒトの評価は評価者の主観に依存するし、AさんとBさんを比較して万民が同じ評価をするとは限りません。そこにはさらに職種や環境、組織の状態、上司ややる気、評価のタイミングなど多くの変数があり、常に客観的な価値をつけることは困難です。

 

また情報も従わざるを得ない法律や法令、一部の基準やルールに関するもの以外は情報を選択する側の思いや使い道、意図により変幻自在に形を変えます。そもそも情報の輪郭は曖昧かつ多様で、何らかの意思決定のために情報を得た者が都合よく活用して始めて価値を生むものなのかもしれません。

 

モノについて言えば例え同じ機器であっても売り手と買い手の力関係により価格が決まるし、買い手側にとってのその機器の価値は、組織の規模や戦略使う者の思いやスキルにより大きく影響を受けます。

 

一方、どのような組織でもどのような人にとっても時間は1日に24時間であるし、1円は1円として流通するという意味で、時間とカネには普遍的な客観性があります。ただ、それでも他の要素で検討したように時間やカネを使う側における、それぞれの価値も常に完璧に客観性があるとは言えないのではないかという疑問がわきます。

 

資金が潤沢にあればあるほど、本来はそうあってはならないものの使い手によっては、これだけ資金があるのだから、この投資利回りは低くてもよい、この程度のコストはかけてもよいのではないか、というように気持ちのうえで1円の価値は低くなることがあるからです。

 

時間も同様です。時間を大切にしている組織とそうではない組織の1分、1時間の価値には大きな差があると思うからです。組織における経営資源としての時間は、ヒトである経営者や中間管理職、従業員の時間に対する意識によりその価値が左右されるのです。

 

なので、先ずは一人の人を対象に、どうすれば時間の価値を明らかにできるのかを検討します。

 

人には寿命があり限られた時間しかないことに気付いているかどうか、自分のやりたいことに対する意思や執着があるかないか、などにより時間の価値は高くもなり低くもなるという考え方があります。これはとても自然な話であり、過去私のなかで何度も繰り返されてきた議論です。

 

自分には限られた時間しかないことになんとなく気付いている人は多いと思います。しかし、そのことが実感できるのか、また自身の行動に何等かの影響を与えるかどうかは、その人が時間をどのように使いたいのかの価値観により決定されます。もっといえばどのような生き方をするのかにかかっているのかもしれません。どのように時間を使いたいのかを鮮明に描けるのか、そうではないかにより相違するし、その通りに行動したいという意思のレベルによっても異なるものなのでしょう。

 

意識するかしないかは別として、限られた時間の使い方を決めている人と決めていない人により、時間の価値は変わるんですね。時間が大切ならば価値は高くなるし、そうでなければ価値は低くなります。その場合、大きく関係する変数は次ものです。

 

  1. 何のために時間を使うのかの決定
  2. どのレベルにまで引き上げるのかの目標設定
  3. 期日の設定
  4. 合目的的行動
  5. 強い意思

これをやりたいというものを発見し、どこまで自分を高めたいのか(楽しみたいのか)決めること、そしていつまでにそれをやり切るのかを設定し強い意思をもって行動することで、自分の時間に対する主観的な価値が決まります。生きている者に与えられた客観性のある時間は刻々と過ぎていきますが、その価値は上記のプロセスを経て確定するのです。

 

ところで、期日の設定は自分を超える時間設定、すなわち自分がどう足掻いてもできないだろうという期日を設定する必要があります。何かに熟練したり必要とされる知識や知恵を得られたとき、同一の質であれば短時間で成果を挙げられることは誰でも経験積みです。質(レベル)を引き上げてもさらに短時間で済むことも理解できます。

 

求められるよりも常に短い期日を設定し、必死になって期日を遵守するのは仕事のやり方と同じですね。仮に目標の接待があったとしても、自分のできる範囲でやる、いつかはやろうといった姿勢からは残された時間へのリアリティある憧憬は生まれないことを知らなければなりません。

 

ここで、自分の能力を超えた期日設定は、自分の人間力やコミュニケーション力を高め誰かの支援を得なければ思うような結果を出せないことにも気づきます。自分のできることは躊躇なく実行し助けてもらうところは助けてもらう、という関係をあらゆる場面でつくりあげていくことも時間の価値を高める方法の一つであることは間違いありません。

 

何れにしても、1から5により時間の使い方に対する方向が明確になり、行動が誘導されます。時間への制約と自身の時間の使い方に対する思いの強弱により行動遵守の精度に差が出ます。

 

なお、決めたことをできなくてもよいと意識が変化すれば、行動は緩慢になり目標が達成できないことや、そもそもやりたいことができなくなるのは自明の理です。時間を何のために使うのかを考え、行ったレベルや期日の設定を反故にすることはとても容易です。

 

例えば親の大きなそして唯一無二の期待に応えなければならない大学受験といったレアな時期の時間価値といったケースを例外として、客観性のある時間に価値を与えるかどうかはあくまでも自分だからです。

 

時間を効果的に使い価値を生むことを止める責任は自分しか負えない、逆にいえば自分が責任をとれば、どうにでもなる代物だからです。結局、時間には客観性があるもののその価値を意味あるものにするのは自分であり、そうするかしないかの責任を負うのは全て自分です。約束を守らなかったツケを払う人は自分以外にはいないのです。

 

私の過去を振り返ると決めたことが中途半端で終わり、辛酸をなめ時間を経てやる気になって立ち上がり、また挫折し復活しと、繰り返しながら生きてきた気がします。不足しているのは、結局は時間を何のために使うのかどのレベルにまで引き上げるのかの目標設定、期日の設定が曖昧なことや、その実行に対する意思の弱さが影響しているのだと振り返ることができます。

 

凡人としてできることは、気付いた都度やり直すこと。気力を奪うイベントや体力の衰えは合目的的行動の阻害要因ですが、多くの仲間や何かをやり遂げたあるいはやり遂げつつある人々の力を借りりながら、誰にでも一定程度与えられた時間を無駄にせず時間の価値を最大化できるよう、「いまやるべきことをやる」活動を開始していきたいと思います。