先日、コンサルティングをしているとき、ある経営者が自社の経営に不足するものがあったことを振り返り、「これからは魂を入れる」と話されました。
「仏作って魂入れず」という諺があります。それは、物事をほとんど仕上げながら、いちばん肝心なものが抜け落ちていることのたとえです。
ここでいう仏をつくるとは、何を差すのでしょうか。
一神教である、ユダヤ教、プロテスタント、イスラム教は偶像崇拝を禁止していますが、一方で仏教は多神教であり、多くは偶像崇拝を禁止せず、仏像が数多くつくられています。信仰の対象となる仏像は人がつくります。
信仰の対象となる石造や木造の仏像も、実はただの石や木でしかなく、作る人の思いがなければ真の仏像にならないということなのでしょう。
仏師の入魂の技で、仏像がその精緻なつくりで見るからに温かく思いやりのある表情や、仏らしい姿や、振る舞いを感じられる仕上がりになっていれば、「あー仏様はすばらしい」と伝わるものがあるに違いありません。
仏師が心を込めて何かを伝えたいと懸命に仏像をつくれば願いが伝わるものだ、なので、魂が入らなければ伝わらない、という諺が活きてきますね。
ところで、道端に置かれている地蔵は、無造作なつくりで経年とともに劣化し、表情も良くわからなくなったものも多いのに、道を行交う人々が、時にその存在に気付き、目を閉じて手を合わせ旅路の安全を願います。
この行いからは、実は、作った仏像は、あくまでもきっかけであり、行交う人の強い思いや、信仰心が手を合わせ願うという行為を生んでいることが理解できます。
ここにすなわち、何かを行う側の戒めとしては、「仏作って魂入れず」は活きるとしても、社会活動においてはそれでは足りず、相手がどのような思いをもって、作る側の思いを感じとれるのか、また影響を受けつつも自らの思いにより主体的に行動してもらえるのかについても、考えなければならないことが分ります。
私はどうしてもマネジメントの視点でものを考えるし、さきほどの経営者との会話も、そこをベースにやりとりをしています。
経営者が、気持ちや思いを込めてつくったマネジメントの仕組みの形が見えたり、精緻なことは大事だとしてもそれだけではダメだ、ということに気付きます。
- 従業員の機体や能動的な生き方に働きかける経営者の思いや行いが空気となり、文化となり、思想となって従業員伝わる
- あるいは、自ら求める従業員の思いの一部に、経営者のつくりあげたビジネスモデル、仕組みやシステムに対する共感や同意、約束がある
- その結果として、経営者の意図を知りたい、意図を汲んで自分を活かしたいという意識や執着が生まれてくる
と考えているのです。
となると、重要なのは経営者の思いや日頃の行ないであり、本人の社会性や人間性、他者からの信頼や尊敬です。
経営を行うときには、経営者が日々人格を磨き、従業員を思いやり、仕事を通じて信念を具現化し、社会価値を造り続けようという思いや意識が、従業員の信頼を得て主体性を喚起し、彼らの行動を変容するのだと分かるのです。
仏像だけではなく、目には見えないけれども自分を信じ、自分のために、ひいては仲間や社会のために、日々成長しようと能動的に行動する従業員の思いや信念が大事です。
少なくとも仕事をしている時には、そのように考え行動できる従業員が数多く生まれるよう、経営者は自ら行動し、成長しつづけなければなりません。
経営の視点からいえば、「仏作って魂入れず」を常に思い「物事をほとんど仕上げながら、いちばん肝心なものが抜け落ちている」ことがないか、重要な事柄を忘れてはいなか留意しなければならないでしょう。
しかし、そもそも完成ということがない組織運営において、もっと大切なのは
- 仏(ビジネスモデルや仕組み、システム)が未完成であっても、経営者の思いに共鳴し、歓喜のなかに主体的、能動的な価値生産を行える従業員が多く生まれること。
- そして、経営者がそのことへの大きな影響力をもてる人になれること
という帰結です。
「これからは魂を入れる」という経営者の言葉の重さと、奥深さを感じ、身の引き締まる思いを持った瞬間でした。