よい病院、よくない病院の見分け方[石井友二]

マネジメントの巧拙が、病院の良し悪しを決めます。多くの病院コンサルティングの成果をお伝えし、自院の運営に役立たせていただくことを目指します。職員がやりがいをもって働ける環境づくりも、もう一つの目的です

香港での蹉跌とBSC

コンサルティング先のアパレル会社の社長と上海の企画会社を訪問したのち、衣服の仕入れ先の一つである香港の九龍(カオルーン)の 深水埗(シャムスイポー)を訪れました。東京でいえば御徒町のような小売店が無数に並んでいました。多くのトラックや台車が行き来し黒いビニール袋に入った山積みの衣類が頻繁に運びこまれていて、そのいくつかの店から社長は衣類を買い付けていました。

 

独特の臭いがする街は埃だらけで雑然としていてこれこそアジアという趣でしたが、行き交う人々に活気がありこちらまで元気になった記憶があります。それが初めての英国領の香港でした。

 

その後、当時懇意にしていたVCからの出向で香港の新規ビジネスへの投資を行っていたMさんのアテンドで、香港島(アイランド)の当時JUSCO(現AEON)のスーパーがあり日本人も多く住む住宅街かつオフィス街の太古(タイクー)に行きました。彼の仕事ぶりも魅力的であり彼と話していると日本では感じたことのない高揚感がありました。

 

そうこうしている内に香港が大好きになり当時、MTRの深水埗の隣の駅、問屋街の茘枝角(ライチーコック)にオフィスがあった日本人の香港進出支援の仕事をしている、Iさんのサポートを受けビジネスを行うため香港に行き始めました。Iさんのオフィスは、いまは彌敦道(ネイザンロード)から九龍公園を曲がり、商店街を左に見ながらしばらく行った尖沙咀(チムサーチョイ)廣東道にありますが、何度となく通いました。

 

九龍の雑然とした、しかし活力のある商店街や、とてつもなく大きなビルで埋め尽くされた香港島で脇にファイルを抱えた外国人が往来する金融街の活気にワクワクし、決まって日曜日にはアイランドシャングリラホテルのロビーでお茶を飲みながら何人かで未来を語ったことを思い出します。

 

ほどなく1997年6月30日に湾仔(ワンチャイ)にある香港コンベンションセンターで行われた英国から中国への返還式のTV放送を、尖沙咀(チムサーチョイ)のペニンシュラ裏のカオルーンホテルの狭い一室で偶然に見ていました。歴史的な転換の始まりです。香港機上(空港)の開業は1998年のことで、それまでは啓徳空港を使い、香港の治安の悪さを象徴する九龍城のギリギリうえを通って下りていました。隔世の感があります。

 

それから香港には50回以上渡航しました(それ以上は数えていません)。MTR(鉄道路線システム)もどんどん拡張されバス便も多く、タクシーも安いため、大げさですが香港の隅から隅まで行きました。

 

ジェトロのお世話にもなり日本人で活躍されている方々をご紹介いただき、ネットワークやイベントにも参加し、さまざな取り組みもしました。朝8時の便で日本を出て尖沙咀で午後3時から仕事をし、夜会食をして泊まらず夜中の1時の便で日本に戻る、ということも何度かありました。日本で仕事に疲れたときアイランドのピーク山に登り香港の夜景を眺めたり、九龍(カオルーン)側から香港島(アイランド)の光輝くビル群を見たり、リパルスベイのカフェヴェランダで太平洋の風に吹かれるのも好きでした。

 

しかし、深圳(シンセン)やベトナムへの展開も含めて手を広げすぎたこともあり、会社を2社設立しながら香港でのビジネスはうまく進みませんでした。

 

その本質的理由は、

  1. 日本での仕事を離れられなかったこと
  2. 海外で働きたいという思いが弱かったこと
  3. 戦略が不明瞭で中途半端だったこと
  4. 日本のパートナーの思いも同様のレベルだったこと

等が挙げられます。

 

結局は、言うは易く行うは難しであり、普段自分が考えていたことが実行できていなかったことに原因があります。憧れ=思いであったものの、何かをやることの信念にまでには思いを昇華できなかったことが分かります。ここ最近の数年はベトナムでのクリニックへの関与やASEANの医療のマーケティングに没頭していたし、またコロナだったので香港からは足が遠ざかっていました。

 

そうこうしている間に2022年を迎え、7月1日に習近平国家主席が出席し香港コンベンションセンターで香港が中国に返還されて25周年の祈念式典が行われました。活力が削がれ魅力を失いつつあった香港の息の根が止まった瞬間を見た気がしました。

 

時を同じくして私が体調を崩したこともあり、Iさんにお願いして7月に香港の銀行口座を閉鎖しました。進出もできていなかった香港からの完全撤退です。もう25年も経ったのだなぁと感慨深いものがあります。

 

振り返れば、中国の一国二制度の形骸化政策やコロナもあり、日本企業や投資家が香港から離れていることを考えると香港でのビジネスはうまくいかなかった可能性もあります。

 

ただ、ある時期に一つのことが成し遂げられなかったという蹉跌はあり腑に落ちていないことも事実です。何れにしても、この経験で分かった「自分はあれこれ気が散り集中できない性格」であるとの反省を胸に、次に活かすしかないと思い直しています。

 

信念をもって明確な戦略を立て、自分をコントロールしながら最後までやり通すことの重要性を考えるとき、BSCで得た、KGI→KFS→PD→KPIのフレームワークを再度自分のものにする必要があります。

 

バランスト・スコアカード(BSC=Balanced Scorecard )は、キャプランとノートンが、財務的指標だけではなく、非財務指標(顧客の視点・業務プロセスの視点・学習と成長の視点)で設定し、それらを組織に展開して、組織が決めた戦略を達成するよう行動させる戦略的経営システムです。

 

KGI(Key Goal Indicator)でゴールを決め、そのための成功要因KFS(Key Success Factor)を検討する。そして、KFSを実行するための具体的な行動PD(Performance driver)を考え、KPI(Key Performance Indicator)でその行動を指標化する、というながれをつくります。

 

財務については予算化のうえ損益とCFを管理するし、顧客の視点・業務プロセスの視点・学習と成長の視点という非財務の3つの区分を着眼として、それぞれの行動を目標化しKPIで、PDCA管理します。

 

こうしてBSCを考えてみると、そもそも「香港で日経企業をターゲットにする会計も含めたコンサルティングファームを運営する」(同時期に進出した日本の会計士はあっというまに100人規模の会社をつくりあげでいました)というKGIが不明瞭で、日本人のアテンドや医療系のコンサルティングを始めようとしたところから間違えていたので、ブレイクダウンしたことがすべてちぐはぐになるのは自明の理でした。

 

今更ではありますが、同じ轍を踏まないために、また物事を熟考するためにも、何かを始めるときにはしっかりしたガバナンスのもとで上記のBSCのフレームワークを必ずつくりあげていこうと、再度思いを強くしたのでした。リベンジしたいと思います。