云わなかったが
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだろう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけているやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影とひかりの像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もし楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
(宮沢賢治『告別(二)、春と修羅 第二章』)
賢治が花巻の農学校の教師を辞し、百姓として農耕生活に入る決意を、生徒に向けたかたちをとりながら、自分の決意や思いを語った詩であるといわれています。
『すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけているやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ』
というところに、自分が慢心せず苦しくても闘っていこうという決意がみなぎっている気がします。
そして、自ら苦労を背負うことを躊躇せず、
『みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る』
といっているのです。
慈しみは力であり、慈愛であり、思いやりである。しかし、忍耐でもあり、苦労のなかからしか感じ得ないものではないかと思っています。
しかし、そんななかにあっても、
『そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ』
と、歯を食いしばって自分の生命を燃やし続けることを、そして闘い、生きることを決意をしています。
大事なことは、そのことをまったく賢治はつらく、苦しいことであるとはおもっていない。
自分が生きる証なんだ、自分がいきていくことの輝きなんだということを最後に締めくくっているのです。
『もし楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ』
人はこの世の終わりを迎えるとき、次の世界に向かって生き続けていくものであると私は思っています。
何にもまして、自分が懸命に闘い、強い思いをもって、世の中すべてに慈しみをもち、大きな光のなかで、歓喜に満ちた人生を送ることができたら、どんなに幸せなのか。
そんなことをこの詩に出会って感じることができました。
日々、他人の命や人生に大きく影響を与えてしまう医療に従事する人たちは、とても大変な、そして厳しくつらい仕事をしていると思います。しかし、そうできない私にとって、それは尊く、そしてうらやましくもあります。
自己を律し、自らを磨き、力をつけてプライドをもち、他人のために真剣に尽くすことができる…。そんな仕事に自分がつけないことがとても残念でもあり、だからこそ、何とか彼らの支援をすることで、彼らに近いところで生きていたいと願っているのではないかと、ときどき思います。
自分も自分として、これからも自分なりの生き方を捜す旅を続けていくことになるのでしょう。
『雨ニモ負ケズ』の慈しみ(2)の投稿をしたときには、あまりにも詩がすばらしく、下手な感傷や陳腐な語りは絶対にすまいと思い、コメントをつけませんでした。
しかし、今回、慈しみ(4)で、この詩をここに書こうと思ったいま、自分の気持を吐露せずにはいれないことを思い出したのです。
実は、これは先日第一生命ホールで聴いた、大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団の第14回東京定期公演のときの楽曲の一つです。
そらいっぱいの光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ…という歌詞をはじめて聴いたときに、その光のなかで歓喜するさまが目にうかび、苦しさを経て得る人間の心の大きさやすばらしさに、胸にこみ上げてくるものを抑えることができませんでした。
私の周りには、豊かな心をもち、暖かく、人間的で、明るく、そして仕事に実直で、懸命に頑張っている、優しい人たちがたくさんいます。そんな人たちと一緒に仕事をすることができて、本当に自分は幸せだと思います。
すばらしい詩を唄おうと決めて、組曲をつくった千原さんという方、そしてこの歌を聞かせてくれた
合唱団、演奏してくれた大阪コレギウム・ムジクムの皆さん、そして指揮者の当間修一さん。いろいろなことを気付かせていただきありがとうございました。