接遇は面倒をみるということであり、単なる挨拶や笑顔、礼節ではありません。かつ、~をしてもらった、なんでも言うことを聞いてくれた、といった高級ホテルにある、普段味わうことができないサービスを受けること、のようなことでもないのです。笑顔や挨拶、礼節は心の発露です。こうしたいという思いから、自然に生まれる行為であるというのが私たちの主張です。
まずは心が大切なのです。心がある言葉は確かに気にはなります。しかし逆に言葉はなくても、その行為自体が心を感じさせるものであれば、それが最も感動をよぶ接遇になると考えています。
そもそも、夜食をいつでももってきてくれる、ワイシャツをすぐクリーニングしてくれる、珍しい煙草を長い時間買いにいってくれた…といったことが取り上げられ、これは優れたサービスである、といったことでもてはやされるのはナンセンスです。
この程度のことはどこでも行われているのです。普段、良心をもった、あるいは多くの心優しい人々は町の中で、オフィースで、スーパーでこうした行為を常に行いながら生活していることを忘れてはなりません。
日常にそうしたサービスや驚きがないから高級ホテルに高いお金を払ってそのサービスを受けにいく…、とても悲しいことです。事実はそうではないのですから。
気がつかなければなりません。本で喧伝されている高級ホテルのサービスは、気がつかないだけで、日常行われていることを…。
DCブランドのショップ、表参道でも六本木でも、銀座でもドアマンがドアを開け、いらっしゃいませということの驚きよりも、男性や女性が、ドアを閉めるとき笑顔でドアを押さえ、まっていてくれることのほうが、感動するし、その数が最近あまりにも多いのでとても暖かな気持になります。
どこかで書いたかもしれませんが、この方はとても大切な方なので気をつけて運転して下さいね、とマニュアルのように話をするドアボーイよりも、工事中のトイレの前に立った、朴訥とした(失礼な言い方ではありますが)汚れた顔をした、中年のおじさんが、みなさん、トイレの工事が終わりました。どうぞご利用下さい、といって、手を広げ、そのどうぞ、というときに広げた両手の手のひらが少し外向きになるしぐさのほうに感動します。
この人は心から、どうぞと言っていることがわかるからです。朝から晩までそのことばを何百回も繰り返しながら、しかし、広げた両手の手のひらが少し外に向く(ほんの数センチ)ことに気がついたときに、じ~んときたのです。この人なりの身体を張った表現だったからでしょう。
また、肩で息をしながら、申し訳ありません、いろいろ捜したのですがこの煙草ありませんでしたと、懸命に煙草を買いにいってくれたホテルマンに感謝はしますが、感動しません。なぜそうしているのか、わかるからです。それよりも、そのへんの飲み屋さんで、すみません、これとこれとこれを下さいとオーダーする私に、もうテーブルに置けませんし、お腹いっぱいになりますよ、とオーダーをとめるアルバイトの高校生に感動します。たぶんマニュアルにはないでしょう。
なぜならば、隣のテーブルでは頓着なしにオーダーしたものがそのまま通っていて、テーブルが満杯になっているからです。
また、飛行機に乗ると必ず、いらっしゃいませ○○様。どうぞごゆっくりなさってください。私は○○です、と挨拶に来てくれる飛行機のアテンダントには、少し良い気持にはなりますが、何でもおっしゃってください、といわれても何をお願いすればよいのかと不思議な気持になります。
しかし、絶対、このヤンキーの若者は席を譲らないだろうと思ってみていると、さっと立ち上がり降りる駅ではないのに、何も言わずに席を譲っている姿に感動します。その子の家庭ことを考えてしまいます。こうみえてもしっかり考えて行動していることがわかり、外見でしかみれない自分が恥ずかしくなったりします。
感動することばかりです。高級ホテルに行っても別に、という感じです。つくらればものよりも、日々の人の心の優しさにいくらでも触れることができます。癒されるのは、生活のなかでなのです。それを感じる感性も必要ではあるかもしれません。しかし、感動する出来事はたくさんある、高級なホテルで特徴的に言われるものではない、ということです。
心をもつ、慈しみ(いつくしみ)をもつことが行動を誘導するし、技術技能を修得しようという執着を生むポイントです。慈しみ=対価を求めない行動、なんでもしてあげたくなる、ということがどこでも相手に関わらずできる人は他者を感動させる接遇を提供できる人である、と考えます。