よい病院、よくない病院の見分け方[石井友二]

マネジメントの巧拙が、病院の良し悪しを決めます。多くの病院コンサルティングの成果をお伝えし、自院の運営に役立たせていただくことを目指します。職員がやりがいをもって働ける環境づくりも、もう一つの目的です

歌舞伎町で生まれ雑踏で生きる

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 最近私は、小さいときのことを思い出します。

 新宿職安通り(歌舞伎町から歩いて5分)近くの産院で生まれた私は、よく小学生のころ、市ヶ谷のお堀でザリガニ釣りをしたり、ボートに乗って遊んでいました。

 小学校5、6年のとき、小さなスクールバスで塾に通ってはいたものの、貼り出される名前はいつも下位で低迷していることをよいことに、勉強への意欲をなくしていた頃でした。

 カギっ子であった私は自由奔放に生きる生活を手に入れ、学校の通信簿もぱっとしない私は小さいながらに自分の居場所を探すため、歌舞伎町にも足を運んでいました。

 当時の歌舞伎町、コマ劇場前ヤングスポット辺りは、なにか田舎の匂いがあり、私にとっては宝箱のような雰囲気を醸し出す場所でした。今私が雑草のように生きているのは、この経験があるからかもしれません。

 当時は自然なことではありましたが、今から思うと随分不健康な生活をしていたものだと思います。
家が新大久保に近いこともあり、新大久保から新宿に山手線一駅を乗り、あるときにはそのまま線路沿いに歩き、歌舞伎町に遊びにいっていた小学校時代でした。

 私が地元の中学校に通いはじめても、新大久保は、商売をやっている友人の実家がある街であり、唯一のJRの駅としての役割を果たし、高校生や大学生になると毎日毎日新大久保から電車に乗り降りし、という生活が長い間続くのでした。

 久しぶりにクライアントとのミーティングをするため、先週土曜日の夜に新大久保に行きました。

 思い出の駅がある街は、私が小さいときに過ごした新大久保とは随分様変わりであり、多国籍の街になっていました。私が学生の頃はよく歌舞伎町で呑んだ帰り、新大久保を通り自宅に向かうことがありましたが、そのときの新大久保はまだ普通の街だったのです。

 徐々に、知らない間に街は様相を変え、中国、韓国、イラン、インド、イスラエル、スリランカ、アフガニスタンといった国から来日した人々が、新大久保に集結しています。少し横道に入れば、いろいろな看板があり、彼らが街に息づいていることが解ります。

 日本が移民を拒否している間に、こうしてイリーガルかどうかは別として、たくさんの人々が暮らし、生きている。新大久保はアジアそのものである。彼らの生命力はある意味、私に勇気を与えてくれます。

 私が、例えば大好きなチムサッチョイやネイザンロード(香港)の雑踏のなかに自分の居場所を見つけたように、彼らもそのなかで自分たちの人生を謳歌しているのだと思うと、私は、自分の故郷に帰ってきたような思いに包まれるのでした。
 
 歌舞伎町で生まれ、雑踏で生きる…。踏まれても踏まれても生き抜いていく…。そんな自分になることが自分らしさなのかと思い直した夜でした。