私が生まれたのは、歌舞伎町にほど近い明治通り沿い、職安通り近くの、今はオフィスビルになっている日赤産院でした。
当時のことを詳しく覚えている由もありませんが、小学生の頃から歌舞伎町の雑踏に足を踏み入れ、中学校の頃には友人が多かった新大久保の近くで育ち、そして高校から大学に通うなかで、歌舞伎町に親しみをもち、歌舞伎町でアルバイトをするなど、随分とお世話になった気がします。
コロナになる前から足が遠のいていたので、今がどのようになったのかはよく知りませんが、昔あったコマ劇場の奥を右に回り、まっすぐ歩くとぶつかる風林会館という区役所通りの真ん中にある雑居ビルは、歌舞伎町の象徴のような場所だったことを記憶しています。
学生の頃はその近辺やゴールデン街の飲み屋で飲んだり唄ったり、またよく遊びました。
会計士試験を受験している時代に、仲間と朝まで風林会館でビリヤードに興じたことや、ゲーセンで夜を明かしたこと、ホストならないかとスカウトされたり、友人がボッタクリの店で軟禁され、飲み代を持って駆けつけたのも、今から思うと懐かしい思い出です。
歌舞伎町で生まれ、近くで育ったことは、私の人生に何の連関もないように思えますが、当時周りにいた新大久保や歌舞伎町で働く友人との付き合いのなかで、水商売のことを知ったり、歌舞伎町で学生時代に経験したことなど、人の本性が垣間見える生き様や街から感じた活力が、自分の考え方や行動に随分と影響を与えているのではないかと思います。
ただ、どこか混沌としていドロドロしたところに馴染めなかったのか、そのまま歌舞伎町に居つくことはありませんでした。
それが、良かったのか悪かったのかは分かりませんが、ここでの付き合いや経験が人生に大きなインパクトを与えたことは間違いがありません。
生きていくことの易しさや難しさ、単純さや複雑さ、軽さや重さ、そして哀しささや楽しさ、人の冷たさや優しさ、夢を見て生きる飾りのない人間の本能や真実を教えてくれた街であったと思っています。
そもそもが人生は本人が選択すれば、何事も無く無事に過ごせるかというと、そうではありません。普通に生きることすら難しい時代になりました。さらに思いを持ち自分なりに何かを成し遂げようと思えば思うほど、目の前にいくつもの壁が立ちはだかります。
壁を乗り越えるためには、色々な属性や考え方を持つ人達と関わらなければなりません。膝を抱えて一人で部屋に閉じこもる、といった世界では生きられないのです。
そう考えると、人生は自ら求めて、行き交う人々と肩が触れ合う程の雑踏を、喜怒哀楽を感じながら醜くも美しくも、仲間とともに歩き続けるようなものかもしれません。
歌舞伎町での出来事は、人生の縮図だった事に気付きます。
自分が、どう生きなければならないのかを考えるとき、ふと新宿や歌舞伎町のことを思い出します。新宿はこれからも私の好きな、慈しむべき街の一つであり続けるだろうと考えています。