人生とは何か。普遍的なテーマでありながら、一生解答が得られないで考えられなくなるときを迎えるのだと、最近よく考える。
地球が宇宙のなかに浮遊し、適度な太陽の光をもって恵まれた環境がつくられ、人類が奇跡的に生まれ、文明が発達し、科学が進化し、寿命が延びたと思えば出生率が減り、滅びる運命にある国や伸びていく国がある。
そもそも宗教思想のコンフリクトから争いが生まれ、無用な戦いが起こり、殺戮も繰り返されている。経済も発展し、衰退し、また何かを乗越えて発展する国もあれば、制約条件のもとで二度と力を発揮できないといわれている国もある。多くの成長と混乱。
一人ひとりに目をやると、あれほど希望をもって将来を考えたにもかかわらず、うまく生きていけない人もいるし、偶然うまく生きていける人もいる。ある時期諦念をもって思考を停止する人もいるし、なんども挑戦して生きていく者もある。
そして失望と歓喜。さまざまな出来事のなかで悲しみ、笑い、また、寿命を全うせず、あるいは全うして最期を迎え、人は輪廻転生を繰り返す。
多くのことが起こった有史の過去を振り返り、まだ2000年と少ししか経過していないことに愕然とする。宇宙の歴史、盛衰のなかで明らかに小さな空間と点のような時間。そのなかで私たちは生きている。
ここはひとつ思いっきり生きてもよいのではないか。なぜならば抗っても、懸命に前に進んでも、結局は芥子粒のような時代のさらにほんの塵のような一瞬でしかないのだから。心に浮かぶ自らの思いは、ときにすべてが筋書きのある台本のなかのほんの一行の、与えられた役割であると認識し、懸命に自分の人生を演じ切ることこそが、人生であるのだという考えに帰着するのである。
生かされているのであれば、それを真摯に受け止め使命を果たす。これが人生の意味なのではないかと
考えるのである。内心にふつふつと湧き上がるものを心待ちにして、いざその感覚をつかんだのちは、自らの利益を得るということよりも、役割を果たすことに執着して生きていくことが摂理ではないか。
限られた時間のなかで、欲望を、使命を果たして満足したいという思いに振り向けて、創造し、価値を生み出し、誰かに喜んでもらっているという確信を得ることができるまで闘い続けていかなければならないではないか。自分のなかでは終わりが来ないとしても、最期には必ず満足できる自分を作り続けていくことこそが、最期の自分を次につなげる基礎となる。
医療介護に携わる方々のバックグラウンドを作り続ける機能をもって、自らの行動をつくりあげていきたいと確認することが、いまできた。