よい病院、よくない病院の見分け方[石井友二]

マネジメントの巧拙が、病院の良し悪しを決めます。多くの病院コンサルティングの成果をお伝えし、自院の運営に役立たせていただくことを目指します。職員がやりがいをもって働ける環境づくりも、もう一つの目的です

悠久をつくる台本に生きる

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人生とは何か、普遍的なテーマでありながら、一生解答が得られないまま終焉を迎えるのだろうと最近よく考えます。

 

地球が宇宙のなかに浮遊し、適度な太陽の光を以って恵まれた環境がつくられ、人類が奇跡的に生まれ、文明が発達し科学が進化し人の寿命が延びたなか、まだまだ発展する国もあれば、出生率の減少に抗えず一定期間を経て滅びていく運命にある国があります。

 

宗教やイデオロギーから争いが生まれ、無用な戦いが起こり殺戮が繰り返されています。経済が発展し、逆に国力が衰退し、あるいは何かを乗越えて発展する国もあるし、制約条件のもとで二度と力を発揮できないといわれる国もあります。多くの成長と混乱があり世界が動いているのです。

 

一人ひとりに目をやると大きな希望をもって自由に生きている人も、希望ある未来を見据えながらもうまく生きていけない人も、偶然うまく生きている人もいます。諦念をもって思考を停止する人もいるし、諦めず何度も挑戦して生きていく人もありいろいろです。

 

歓喜と失望、さまざまな出来事のなかで笑い悲しみ、また寿命を全うせずあるいは全うして最期を迎え、人は輪廻転生を繰り返しています。

 

数えきれない多くのことが起こった過去を振り返るとき、まだ紀元後2,000年と少ししか経過していないことに愕然とします。何十億年も続く宇宙の歴史、盛衰のなかで明らかに小さな空間と点のような時間に右往左往しながら私達は生きているんですね。

 

ここはひとつ思いっきり生きるのもよいのではないでしょうか。抗っても、懸命に前に進んでも人生は結局は芥子粒のような時代の、さらにほんの塵のような一瞬でしかないのですから。

 

心に浮かぶ自らの思いは、ときにすべてが筋書きのある台本のなかのほんの一行の与えられたものであると認識し、懸命に自分の人生を演じ切ることこそが、人生であるのだという考えに帰着するのです。生かされているのであれば、それを真摯に受け止め使命を果たす。これが人生の意味なのではないかと考える所以です。

 

沸々と湧き上がるものを心待ちにして、いざその感覚をつかんだのちは、自らの利益だけを得ることよりも、与えられた役割を果たすことに執着して生きていくことが摂理ではないのでしょうか。

 

限られた時間のなかで、「限りのない欲望」を、「使命を果たして満足したい」という思いに振り向け、創造し価値を生み出し誰かに喜んでもらっているという実感を得ることができるまで闘い続けなければならないと思います。

 

自分のなかでは求めるところに終わりがないとしても、最期には必ず満足できる自分を作り続けていくことこそが後世の自分につながる基礎となるのです。

 

小さくてもよい医療介護を始め多くの職種に携わる方々のバックグラウンドを作り続ける機能と役割をもって、自らの行動をつくりあげていきたいといま再確認できたのでした。

その日に向かって生き抜くこと

 

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かなり前のことですが、「象の背中」という映画を観ました。役所広司と今井美樹が夫婦役で共演です。

 

余命6か月を宣告された役所広司が、180日をどう生きるのかという映画でした。象のように死を覚悟したとき、誰にもみつからないように死に場所にいくのではなく、皆にかかわりながら生き抜きたいという主人公の思いをテーマにしています。

人生、仕事、家族をテーマにしたあたりまえのストーリーで、とても日常かつ誰にでもあり得る生活を描いていて、リアリティのある映画でした。

結局人間は死んでいくものだということを分かっていながら、その日がくるまでは死を意識していない。死を意識して、どう生きるのかということが人生の半分を超えてからでなければ切迫感をもって感じられないことを思い起こしました。

あと何年、と漠然と考えて不安と焦燥をもちながら、何かをしなければならないという感覚になったのは、この5年位のことか、と自分で思い返していました。そうはいっても毎日死を意識しているのではなく、気がつけばそこに戻るという程度の薄い意識であることに、映画をみて気がつきました。

毎日死までの日めくりをめくる役所広司は、家族のための生活費を補填するため12年ぶりに会った兄が、自分の入院するホスピスに見舞に来たとき、こういいます。

 

「死ぬのが怖い…。」

 

自分から進んで生を全うしようとして、治療をしないことを選択した役所広司が、「分ったようなことをいっても、俺はとても怖いんだ」、と言うところはとても人間らしいと思いました。

私たちには、「怖い」という個人個人のさまざまな思いを凝縮した言葉を最後の最後までどこかで感じながら、でも死を受け入れざるを得ないときが必ず来ます。

 

なぜ宇宙あり、地球があり、人間が存在すること自体に対する解を誰ももっていないいま、死ぬことだけに焦点を当てることにはあまり意味がないような気もしますが、その日に向かって、誰にとっても一日一日後悔のない日々を懸命に、そして満足して(達成感をもって)送ることが必要なことには変わりはありません。

 

いつか来るその日に後悔しないために、生きた証を自分のなかにしっかりつくりながら、日々を懸命にそして楽しく生きていこう、と決意することが大切です。

 

実際にそうしているかどうかというと自信はありません。頭では理解していても覚悟せず、切羽詰まらないと行動できない怠惰な心を抱え、日々右往左往している自分がいるからです。そんなときにこの映画です。


偶然に鑑賞した映画ではありましたが、自分のあるべき立ち位置を再確認させてくれた、とてもすてきな物語でした。

静寂と輝きと

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カーテンを勢いよく開け、ホテルの窓から外をみると、そこには静かに佇む町並みと、それほど遠くではない場所に時折キラキラ小さな光を放つ静かな海が横たわっていました。

 

冬の季節、町の色はどちらかというと灰色で、北国の外れにあるこの地の気候がとても似合います。暫く眺めている間に空は少しずつ曇りはじめ、そろそろ雨や雪を予感させる雰囲気になってきました。

 

午後、東京事務所で会議があり、朝一便に乗るため空港に向かおうとする自分が平日の朝にこにいるのは何も不思議ではありません。

 

昨日の夜、クライアントでの仕事が終わったあとに場末の酒場で知人と静かに旧交を温めていたことを思い出します。仕事が終わったあと地方で人と会うと当たり前ではありますが、その日は東京には戻れないのです。

 

朝早い約束があるときには、先ず東京に一番近い都市まで移動することが多くありますが、それは新幹線がある太平洋側のできごとです。その地域を出た土地に来ると、なかなか容易な移動手段はありません。そんな事情で滞在するのに意味があるからそうしている、のであり別に苦にはなりません。焦ることなく、仕方ないとかえって開き直ることができて気は楽なのです。

 

ところで、小さな町の家々の隙間から見える、穏やかに波打つ大きな海は、夏の陽の当たる景色と比較してあまりにも暗いことが分かります。町の静けさと符合するように海もまるで凪(なぎ)のように見えます。しかし、雲行きが怪しくなり、風がでてくれば、自然は協力をして海に白い波をつくり牙をむいて私たちの前にはだかります。

 

地球は生きていて、そのご相伴にあずかっている身として私たちは、自然には抗えない、ささいな存在です。荒れている海の気を静めたり雨を降らせないようにすること、また雲を散らし太陽を空から覗かせるなんてことは、神のみに許されたことなんですね。こうして窓の外を眺めていると、そんなことが容易に納得できます。

 

私たちは、だからこそ短い人生を愛おしむように、こうして日々を生き、何かを変えるために意志と目的をもって抗い、人間らしく合理的に最大の価値をもって生きていかなければならないのだとと思います。

 

町の活力もそこに住む人間がつくりだすものですが、社会の活力も地球に生けとし生きる者でしかつくりだせないものだという想いを強くします。

 

コントロールできない自然の力にあるときは従い、そしてあるときには少し抵抗し、最終的には自然を与件として、すくすくと、そして清清と生きていく、生きていかなければならない生き物が人間なのだとつくづく思います。

 

意思と姿勢、そして共感と協働。皆わかり合い、今求められているものをしっかりと見据え、協力して何かをつくりだしていかなければならないと感じます。そこに私たちは生きているし、価値があると考えるからです。きっと、そのことで皆でともに生き支え合わなければならない意味を確認できるんですね。

 

その人には、その人なりのその人しかできないことがあり、それらすべてのことには価値があります。誰が見ていなくても自分が透明な心の目をもって、自分の生きざまを見続けていかなければならないと気づきました。

 

ほんの数分でしたが貴重な学びを得られた時間、もういちど焦点を目の前に合わせると、町の景色が心なしかほんの少しだけ明るくなった気がした朝のひと時でした。

インドネシア・ジャカルタの病院視察

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ジャカルタには何度か訪問しています。最近ではクライアントの病院の関連施設がインドネシアから看護師の資格を持つ介護実習生を6名受入れ、人口減少が急速に進む現地で希望の星として勤務するなど、インドネシアは身近な存在です。

 

今年も6名の採用が決まり、私も現地への訪問が予定されていましたがコロナ禍でかないませんでした。海外視察ができなくなってから2年。今はどうなっているのだろうと想像しながら色々な病院を思い出しています。

 

少し古いですが2013年の記事があったのでご紹介します。

 

「ジャカルタ3日目を迎えました。朝の景色は日本と同じようにみえます。ただ日本より湿度が低く、太陽の光は強いものの東京よりもずっと過ごし易い気候です。
 
さて、医療について説明します。昨日訪問した病院のCEOの説明では、インドネシアには、国立病院保険省の下、33病院があり、民間の病院も数多く存在しているとの話がありましたが、2億4千万人の国民がいるこの国で、少し病院が少ないという印象を受けました。 
 
『病院の規模は785床。職員2220人。手医師280人、外来は1800人その他、緊急が1500人、平均在院日数8日から10日、稼働率85%未満。待ち時間は3時間から5時間は当たり前で、それでも国民は何もいわずにじっと待っている。

 

その病院は貧困層が60%を占め、医療費は損益分岐点よりも20%ディスカウントの医業収益で賄うという話を聞きました。ただし、富裕層からは40%のマージンをとってよいと決まっている』とのことで、患者の所得により、病棟のクラスも変わるという日本ではあまりない運営をしています。
 
『手術件数毎日40件。しかし全身麻酔が少ない。周産期の帝王切開が多くを占める』との話でした。

 

総合病院で、整形とリハが得意というわりには脊椎間狭窄症の手術が1週間に6件、リハビリも見せてもらいましたが驚くほどの状況で、これが地域トップクラスかと目を疑いました。心臓や脳の手術はなし。
 
『カテーテルはやるが手術は別の病院』と話をお聞きして納得しました。国立病院で南部にあるのはこの病院だけであるということもあり、二次急の様子ではありながら、日本のイメージからすれば、いまいちの病院ではないかという印象です。
 
なお、この病院は審査を終わり12月にはJCII(Joint Commission International=国際医療安全基準(IPSG)認定機関)の一つを取得する予定になっていますが、JCI取得は海外からの患者を受け入れるというよりも、医療安全や医療のクオリティをあげようということでの対応といわれました。

 

日本はJCIの取得が少なくまだまだですが、英語での認定の壁が低いのでASEANでは認定病院が結構あります。
 
日本の一般的な医療の質は高いと思いますが、海外も欧米で学んだ医師が医療の質を引き上げていることは間違いありません。日本の我々のクライアント病院の運営状況を思い出し、多くの海外からの患者を治療はしているものの島国で完結している医療から世界の医療への飛躍を期待した時間でした」。
 
さて、日本の状況も随分変わりました。コロナで大変な状況に置かれたし、インバウンドの盛り上がりや医療ツーリズムへの取り組みも強制終了させられました。

 

しかし日本のJCI病院は2020年現在29施設になり、随分と増えました。とはいうものの世界では1014施設。ASEANの病院視察に行くたびにJCI病院に出くわしますが日本は先進国では少ない部類です。

 

医療の質の担保だけではなくインバウンドの患者はJCI認定病院を目安にすることもあり、コロナが落ち着き日本の医療の良さを海外に喧伝できるようになったときには頑張って多くの病院がJCI認定をとって欲しいものです。

 

日本が島国である事で、良かったことと良くないことがありますが医療のこれからを考えるときにもその視点は役に立ちそうです。海外の病院に学ぶことこれからも継続していきたいと思います。


 

 

実感のない世界

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10年前に、自分が世の中の変化についていけていないことについて記事を書きました。経済成長できない日本はいま失われた30年に向かい合っています。キャッシュレス転換で先進国に遅れ、EV化で欧米や中国の後塵を拝し、社会インフラを変えるようなユニコーン企業もうまれていません。ここに書いたことを振り返ると私も10年前からほとんど進歩していないことに気づき愕然とします。

 

これから自分がどう変わればよいのか、再考します。

 

「ビルの窓から見える香港の街並みは、自分がこの場所にいることを信じさせない力があります。

日常と異なる視野を受け入れられないのは、単に見慣れないということだけではなく、人間の進化を心のどこかで納得できていないからだと思います。

人類が、ここまで創りあげてきたものがあるにも関わらず、自分が知る日常の範囲から離れたくない、自分が関与していないものは受容れたくない、とどこかで思うからかもしれません。何処か他人事なのです。

 

科学や技術が大きく進歩しているにもかかわらず、大半の人間は過去とあまり変わらない生き方をしています。とりわけ日本では、私も含めネットを十分に使いこなせていないことも身近な事例かもしれません。

 

過去と同じ思考でいる方が安心するし、何かを学ぶ必要もありません。若者や一部の人達が何かを学び自分を変え時代に順応して新しい価値を享受していますが、そのながれは大きな動きになりません。日本人の多くは、環境変化を知りながら自分の生き方を変えず、多少の便利を受け入れて日常に満足し生きているのではないかと思うのです。

 

科学の進歩だけではなく、それがネガティブな方向に進むとしても政治や経済も含め環境の変化は顕著です。刻々と変化する時代をどのように捉え行うべきことを明確にして、もっと日常から変化しなければならないのだと気付きます。

 

大きく変化する必要はありません。しかし、常に考え、常に創造し、何か昨日よりも今日、今日よりも明日と前向きな変化を創りだしていかなければならないのだと思います。

 

たった一つのこと、例えばPCやスマホを使いこなす。自分が新しいことをウェブから学ぶ。Twitterでつぶやく。Facebookで日常を伝える、Kindleで本を慈しみながらページをめくり学習する。周りをシステム化し、ちょっとした生産性向上の利益を享受しほくそ笑む、小さくてもよい少しの変化を楽しむことができなければ、今に生きている実感をもてないのだと考えています。

まずは、環境の変化に合わせ、また環境変化を先読みし自分が毎日少し変わる。そのためには、

  • 世界・日本経済の変化を知る
  • 自分の興味のあることを列挙する
  • ITをうまく使えていない領域を捜す
  • 日々取り組むことを決める
  • 毎日の成長を確認する方法を決める

ことが必要と分かります。

 

類似した努力を多くの国民が続ければ、その力は大きなうねりになり、日本を変える力になると思います。先進国で最も一人当たり生産性の低い国、成熟し衰退期に入った日本。

 

持ち続けなければならない守るべきものは守りつつ、しかし進歩を決意して日々変わり続けられるよう多くから学ばならないという思いが、カオスでありながらすざましい勢いで発展する香港の景色に重なります。

 

ゆくゆくは時代をつかみ、そして時代に先んじて生きる、そんな生き方をしなければならないと確認できました」。

ミャンマー・ヤンゴンの病院視察

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  利益がなければ医療の継続は行えません。どのように優れていると自負したとしても、利益が出ない医療は継続できないのです。

 

自治体病院であれば税金でその損失を補てんすることができると考えているでしょう。しかし、それは地方財政の疲弊とともに儚い夢と消えることが夕張や銚子の事例で明白です。

 

この二つの事例は特殊ではなく、他の自治体でも人口減少による経済破綻が医療機関の存続を危うくしているのは周知の事実です。いわんや民間病院においては、適正利益の出ない病院が残り続けることができるわけはありません。


優れた医療は医療そのものだけではなく、マネジメントをも含んだ定義です。明確なヴィジョンをかかげ、職員をモチベートし、地域住民や地域医療機関や介護事業者を巻き込んだ活動ができている医療機関は、これからの地域を支え、患者や利用者から評価される証として利益を得て存続するし、そうではない組織は存続できなくなることは明らかです。


マネジメントを侮ってはなりません。優れたリーダーがいる病院はロジックが分からなくても自然に人が惹きつけられ、組織がうまく回転し成果を挙げることができます。

 

しかし、そのリーダーが組織からいなくなったらどうでしょう。あの院長のときには、あの部長のときにはうまくいっていたのに、ということでは優れた医療を継続することはできません。マネジメントシステムの重要性がここにあります。大きな組織でなければマネジメントの仕組みを導入できないと考えているリーダーがいれば、それは間違いです。

 

人はどうしても楽なほうに流れる傾向があります。なので、内面から湧き上がる能動性が喚起されるマネジメントが行われる必要があります。あるべき医療を議論し、そのなかで最も合理的で多くの人が納得できるマネジメントシステムを導入しなければなりません。


それらは表面的には簡単なようにみえて、背景にはしっかりした哲学がなければなりません。形式ではなく実質を求めたマネジメントシステム構築への取り組みが望まれています。

 

何年か前、もちろんコロナやクーデターの前に、ミャンマーの病院視察に行きました。ミャンマーはながく軍事政権が続き、経済制裁を受けている間に中国と韓国の企業がミャンマーに深く入り込み勢力を伸ばしていました。

 

日本との間には直行便があり行き来はそれなりにありますし多くの外国人実習生や特定技能人材が日本で働いていることは有名です。しかしミャンマーへの企業進出にはどうしても制約があり、日本人会によれば会員の日本企業は約100社、個人は700人程度と少ない感じです。

 

街は新しいところと、そうではないところが混在しているイメージでした。富裕層向けも含め6病院を視察しましたが、皆それぞれ特徴をもち、とても賑わっている病院だった印象があります。

 

当時は外国の病院はミャンマーで展開できないため、富裕層は国境を越えてタイの病院に治療に行くと聞きました。タイのサムティベイト病院を視察したときに、日本人マネージャーのMさんからミャンマーの富裕層(官僚)が最も高い入院費を払うと聞いたことを思いだしました。

 

写真はヤンゴンのパラミ病院です。巨大かつ著名なタイのバンコク病院グループ、前述のサムティベイト病院と連携をし、欧米で学んだマネジメントボードによりマネジメントを行なっています。

 

彼らの支援を受けて運営されるヤンゴンのいくつかの病院にも128列のCTや3テスラのMRIがありましたが、この病院にもMRI棟がありました。設備投資だけではなく、コンプライアンスもしっかりと管理されていて、ある意味平均的な日本の病院よりも優れていたのではないかという印象です。

 

日本の病院も、業態や規模の大小に関わらす、益々厳しくなる少子高齢化のなかで、しっかりしたマネジメントシステムを整備し、マネジメントスキルを身に付け、コロナ禍の後間違いなく到来する大きな日本経済劣化や医療環境悪化の波に飲み込まれない体質づくりを怠らないようにしなければならないと考えています。

 

 


                                                                                                                                                         

業務改善の3つの役割

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業務改善とは、現状業務をより好ましい、望ましいものへ改めること及びそのための創意工夫の取組みをいいます。業務を見直し、現状の業務をよりうまく、より早く、より合理的に(安く)できる業務に変えていくことです。それは社員一人ひとりが本来は業務として行うものです。

改善の視点は、

  1. 標準化
  2. 簡素化
  3. 廃止
  4. 代替
  5. 集中化
  6. 移管
  7. 内製化・外注化

といったことにおきます。

 

自部署の組織のことだけを考えるのではなく、全体を俯瞰したうえで現状をよくしよう、成長しようという意識をもち、相手の立場も考慮したうえで小さくてもよいので改善を行うことが必要です。もっとうまく、もっと早く、もっと合理的に(安く)というキーワードをつかっているが、それはムリ、ムダ、ムラをとる、ということとほぼ同じ意味であり、仕事の質を上げ、コストを削減し、結果として収益を高め費用を削減します。

 

業務(仕事)を見直し、前述したように、仕事のやり方を標準化し、優先順位をつける、段取りをとる、仕事を整理する、無駄な業務を行わない、他の部署と協働する、業務を移管する、業務を平準化する、といったことで生産性を向上し、内製化する、購入しない、集中する、スペックを落としコスト削減を行うのです。

 

ところで、コスト削減にはコスト絶対額の削減と単位当たりコスト削減があります。前者は購入しない、集中する、スペックを落としコスト削減を行うといった従来の「コスト削減」といったときに使う定義が当てはまるものです。これは一度やると継続的に続くものもありますがサービスや物品を購入する一部のコストを削減するに留まり限界があります。

 

しかし、単位当たりコスト削減は、業務改善で仕事の仕組みや枠組み、方法を変えることや教育により個人の技術技能の向上を図ることで、例えば、8時間で10の仕事をする人が、20の仕事ができるようになることをいいます。同一資源により成果が2倍、すなわち生産性が2倍になった事例です。収益や費用という損益区分のなかで、費用に占める人件費を有効活用するとともに、生まれた余裕=付加価値時間により多くの収益獲得を可能とする活動です。

 

ここに、コスト絶対額削減は一定程度の我慢を強いるものでもありますが、単位当たりコスト削減は、構成員がやる気になり、改善活動において承認され評価されて、達成感を以て成長し、喚起をもって前に進むポジティブな環境をつくるコスト削減であり、組織だけではなく構成員にとってもとても有益です。

 

業務改善により目指すものは、業務の形をよりうまく、よりはやく、より合理的にすることであり、ムダ、ムリ、ムラをとるものではありますが、最終目的や役割は、教育システムの充実と並行して

  1. 仕事の質を高め、
  2. 構成員の意識変革を促し、
  3. 単位当たりコスト削減により生産性向上を図ること

にあると理解しなければなりません。

 

トップマネジメントは、何のために業務改善を行うの方向を出し、方法を教育し、啓蒙し、改善を促すとともに、評価し、フィードバックし、ベンチマークにより拡散し、組織全体に大きな成長の渦を作り出すことに尽力しなければなりません。

 

我々は、多くの組織で業務改善を導入し成果を実感していますが、業種業態に関わらず、業務改善の生み出す力のすごさを実感できる機会をもっていただけることを期待しています。