よい病院、よくない病院の見分け方[石井友二]

マネジメントの巧拙が、病院の良し悪しを決めます。多くの病院コンサルティングの成果をお伝えし、自院の運営に役立たせていただくことを目指します。職員がやりがいをもって働ける環境づくりも、もう一つの目的です

業務改善提案はクリエイティビティの原点だ

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多くの病院で業務改善提案制度の導入が盛んです。 

  1. 方向を示し
  2. 方法を教育し
  3. 評価し
  4. 報償する

ことで職員一人ひとりの創造性や工夫を喚起、提案を受けるものです。この4つが連続することで提案が継続されます(提案サイクル)。

 
医療機関では従来から、提案箱といったかたちでの提案を採用しているところがありますが、 
  • 何のために提案を行うのか、
  • なぜ自分が提案しなければならないのか、
  • どのように提案すればよいのか、
  • 提案した後、しっかりとチェックをしてフィードバック(評価)をしてくれるのか、そして
  • 結果に対し報償してくれるのか

といったことからすると、提案箱方式は、まったく提案が活性化する条件を満たしていないことが判ります。

 
まず、提案させても評価もしない、反応なし、なしのつぶて、といったことが多くあるため、職員はやる気をなくし、何も提案しなくなることが通常です。
 
しかし、そのような病院で説明する提案制度を導入すると、驚くことにあっという間にたくさんの提案が集まります。彼らは考えることを停止しているのではなく、提案するのを止めているだけであるということがよく分かります。
 
しっかりと彼らの考えを吸い上げていく仕組みがなければ、彼らはいずれ考えることすら止めてしまうことになります。現場情報を吸い上げ、彼らの意見をすべてマネジメントに活かすのではないとしても、貴重な情報として収集して整理し、課題を発見しつつグルーピング化し、問題解決に活かしている病院は成果をあげています。
 
改善提案制度は組織の経営資源、すなわちヒト、情報、時間、モノ、カネといったアイテムを活性化するためのとてもシンプルで成果を得られるツールであることが理解されなければなりません。

現場のリーダーが職員のこうしたほうがよいという意見を吸い上げる仕組みや文化ができていない場合には、組織が制度をを導入し、しっかりと運営します。
 
改善提案制度は提案を通じて、標準化、簡素化、代替、移管、廃止、内製化・外注化等の実績をつくり、考えることや提案することが創造や工夫を表現する方法であり、それは必ず自分や病院、そしてひいては患者に貢献することだということを知らしめていく必要があります。
 
なお、提案は1ヶ月1回の提出を義務として実施し、職員は日頃から改善への意識を高めていなければなりません。組織の働きかけにより、常に見る、常に疑問に思う、そして標準化や簡素化、代替、移管、内製化・外注化、廃止といった方法により、もっとうまく、もっとはやく、もっと安く(合理的に)というながれが職員の意識のなかにできあがります。
 
例えば不平不満、個人的な誹謗や中傷、そして実現不可能な願望や要望といったことは提案禁止というルールとするなど、あるべき改善提案制度の導入については、さらに重要ないくつかのノウハウが必要です。現状をどのようにみるのか、どのような着眼でどのように提案するのかをも教育したうえで成果を挙げていきます。
 
多様な観点からの提案があり、病院運営にとても貢献することが分ります。
 
なお、一定の評価基準に基づき内容の良し悪しを評価しポイントを付与して報償の基礎とします。年間を通じて優秀提供した個人やチームに表彰をする病院もあります。ただ、真面目に情報提供したり、そして実際に地道な改善を行った者に対しても何らかのかたちで(金銭、非金銭での)報償を行うことを忘れてはなりません。

病院では、病院機能評価への対応、職能等級制度導入、施設基準の取得、病電子カルテ導入や床転換、業態転換、介護事業参入、病院建て替え等々経営改革やイベントが行われることがよくあります。
 
しかしこれらは大抵は一部のメンバーで実行されてしまいます。一方改善提案は職員であればだれでも参加し何かを変えることができる制度です。新人からベテランまで、また職種に係わらず全員参加による改革を推進するために、業務改善提案制度を活用する病院が増加しています。

誰でも参加できる、また参加しなければならない制度としてとても有効なものであると思います。
 
この方法により組織活性化を図ることが人を育て組織を盤石なものとし、益々混迷する時代において、成長を促す仕組みのひとつになると考えています。
 
マニュアル作成及び運営により現状を可視化したのち、多くの組織で何かを創り出す改善提案制度が採用されることを期待しています。

緊張と弛緩のリズム

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日本には四季があり、季節季節にそれぞれの場面があります。人々は季節の移り変わりに合わせて気持ちを切り変え行動を変化させながら生活しています。

季節の変わる毎に少なくとも2回~4回は食事や衣類を替えています。ときには考え方すら変えて私たちの生活を彩ります。
 
最近は温暖化による変調があり自然被害を受ける地域もあり胸を痛めることも多いですが、四季の一つ一つの季節がはっきりしている国に生まれて本当によかったなと思います。

正月は一年の始まりのときであり、まさに「一年の計は元旦にあり」というようにあれこれ1年間のことを考えますし、また、春になればワクワクして新しい年度の始まりに期待し幾つもの決意をします。
 
仕事の区切りとして企業の決算は冬が幕を閉じ春になる頃の3月末が一般的なので3月までに○○をしていこうというケースは多いですよね。 
 
さらに夏休みまでの間にひと仕事をという考え方をもつ人もいるし、夏の終わりまでに、とか冬が来る前までに、とか意識をもって行動することもよくあります。
 
いずれにしても、一年に四季があることでどれだけメリハリのある人生を歩むことができているのだろうと考えると、四季の大切さが本当によく理解できます。
 
さて、一年間に四季があるように一日にもメリハリをもって生きる必要があります。
 
朝から昼、昼から夕方、夕方から夜、そして夜仕事が終わってからの時間といった区切りが適当です。朝から昼は一日の調子を出す時間帯で、お昼までに○○をしよう、仕上げようというながれをつくっていくし、昼から夕方までは、午前中の勢いを得て、ガンガン進んでいく時間帯です。

夕方から夜はどちらかというと内部の問題を整理したり、日中はなかなか手が付かない仕事をする、あるいは人とコミュニケーションをとりながら成果を挙げるいく時間帯になります。そしてそれ以降の時間帯は、明日以降の準備をしたり、新しいことを進める時間。または自分の力を蓄えるための時間として使うことがポイントです。
 
もちろん週の何日かはクールダウンのためリラックスして自分の趣味や家族との団らんに使うことも良いですよね。
 

振り返ると緊張と弛緩がリズムをもって一日を構成しています。緊張が長ければときには弛緩を赦せるし、短ければさらに自分を鼓舞し緊張を増幅して仕事をします。

季節を愛でる気持ちや季節をきっかけとして意識を変え、行動を変えることは季節を利用して自分の行なうべきことを実行しますが、一日においても自分のなかでリズムをつくり、時間をより効果的に機能させようと意図した行動をとることが有効です。

 

いずれにしても、毎日の緊張と弛緩は、自分で自分をコントロールしリズムをつくる源泉です。

 

一日をうまく区切り日々の自分を管理するなかで、強い意思そして信念をもち、技能技術を高め、人間性を以てコミュニケーションをとり、達成感を得て成果を挙げていかなければなりません。

 

自分を動かし制御することは、他人をそうするよりも何倍も容易であることは言うまでもありません。

先の見えない時代、再度自分の行動を振り返り、リズムをつくり、うまく自分をコントロールできているかどうかを確認し修正を繰り返すなかで、やるべきことをやり結果を出していきたいものです。

目標管理のいくつかのポイント

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組織における目標管理制度の運用がとても大切なものとなってきています。目標は定量的であるのは当然ですが他にいくつかの運用上の留意点があります。

 

まず、目標管理制度は、BSCの形式をとったとしても方針管理に近いものが導入される必要があります(方針管理は「経営方針に基づき、中・長期経営計画や短期経営方針を定め、それらを効率的に達成するために、組織全体の協力の下に行われる活動(日本科学技術連盟)」と定義されています)。

 

あくまでも組織の方針を各部署がどのように達成するのか、ということが基礎となるからです。組織の決めた方針目標を組織としてどう達成していくのかという統制活動の一部として捉えることが大切です。当たり前のようですが多くの組織が上手く管理できていません。

 

組織の出した経営方針に対して各部署が目標を適切に分担し、どのようにそれを達成しいくのかを徹底して議論し、各部署協力のもと、それらを完全に達成していくなかに、組織の事業計画が計画通り進捗し、組織(トップマネジメント)の立案した戦略や政策が実現されると考えなければなりません。

 

したがってこの部分が脆弱であり、例えば組織戦略とのすり合わせが不十分、各部署が各々課題を独自で目標化するなどの方法を採用しているのであれば目標管理は形骸化します。また、ただ単に各部署に目標を与え「達成してみろ」といった目線での対応では各部署から受容されず成果も挙がりません。

 

トップマネジメントは組織内外の環境分析により構造的な視点から戦略立案するとともに、各部署の課題解決をも行える目標を設定するし、各部署へのサポートを行い各部署がそれぞれの目標を達成し、機能を最大限果せるよう支援しなければなりません。

 

形式ではなく、実質的に成果をどうあげていくのかという基本を外すことなく、制度設計がなされなければならないのです。
 
次の重要な視点として個人への目標の落とし込みがあります。このことも多くの組織で未着手です。

 

部署目標は当該部署に帰属するすべての構成員により達成されるべきものです。したがって誰一人として、組織目標に無頓着であってはなりません。ここにすなわち個々の目標を適切に個人に落とし込む仕組みを前提とした目標管理でなければなりません。

 

一人ひとりが役割を果たし達成感を得て、自らの課題解決とともに目標達成の一翼を担うといったシステムでなければ「頑張る誰か」だけが頑張り、たとえ部署目標が達成されたとしても、構成員一人ひとりの成長につながらないという帰結を生むことになります。それでは目標管理のサステナビリティは担保されません。

 

事業は人であり、程度の差こそあれ、すべてのスタッフ全員が、目標達成をテーマとして今日よりも明日、明日よりも明後日というように成長していくことで組織は進化するし、質を高めて価値創造し社会貢献することができます。

 

部署目標、組織目標が誰か一部の者に依存して達成されるのではなく、組織構成員全員により達成されたという実感をすべてのスタッフが持つときに、その組織は一体となれるし、継続的に目標達成を行うことができる真に力のある組織に変貌するのです。

 

一人ひとりのスタッフに光を当てることのない組織マネジメントシステムは、本来あるべきシステムではないという認識を幹部や中間管理職がもつ必要があります。個人の特性や、やりたいことをベースに割り振られた個人目標が達成されるよう、上司は常に目を配り、支援していかなければならないのです。コミットメント(約束)による役割設定です。

 

常にビジョンに基づく戦略ストーリーを以て、目標管理のあり方を、原点に戻り見直ししてみる時期が来ていると考えています。

 

繰り返しになりますが、目標管理が実効性をあげるためには、目標は戦略的で構造変革を促しつつ表層的な日々の課題をも解決する、すべての個人に受容され落とし込まれたものでなければなりません。

 

トップマネジメントは

  1. 何を変えるのか、
  2. どう変えるのか、
  3. そのために組織活動をどう変えるのか、
  4. 社会にどう貢献するのか

について最適解を得られるよう熟考し戦略立案するとともに、適切な目標管理を行う必要があります。ニューノーマルの時代、より強いリーダーシップが問われる時代に入ったという認識があります。

組織の形と各階層の傾向(くせ)

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組織には形があります。どのような形を採用するのかにより仕事の進め方や働く者の役割、機能が決まります。一般的な形にはピラミッド型組織、文鎮型組織、マトリックス組織などがあります。

 

ピラミッド型組織は最上位の一層に経営者(トップマネジメント)を設置し、下位の二層に中間管理職である部長、課長、係長、主任、そして三層に一般職が配置されピラミッドの形で権限の構造を表現する組織です。多くの組織がこの形態を採用しています。指揮命令系統が1つであり運営がシンプルに行えます。

 

文鎮型組織はトップマネジメント以外は全員が同等の立場にある組織でフラットな組織です。平らであるものの経営者の位置が持ち手になる文鎮に似ていることからそう呼ばれています。中間管理職を置かずチームやチーム間で仕事を進めます。自立した専門職のスタッフが多いとうまくいく印象があります。

 

マトリックス組織は、職能や事業部の2つの系列を縦・横に組み合わせて網の目(マトリックス)のようにした形態の組織です。マトリックス組織では、スタッフは職種により職能別の組織に所属だけでなく、別途他のラインやプロジェクトにも所属しており、職能別、プロジェクト別、地域別等柔軟に行動します。指揮命令系統は2つありルールが整備されていなかったりリーダー同士のコミュニケーションがとれていないと業務の優先順位が混乱するデメリットがあります。

 

このような形式はとらないまでも実務上では、ラインで仕事をしながらプロジェクトに参加するときに同様の課題は起こることがあります。イメージしやすいですね。

 

組織運営の考え方により組織の形は変わります。環境や業務遂行に合わない形の組織を運営することでさまざまな問題が生じます。

 

なので組織は内外ニーズに合わせて変化するものであり、今までも時代の移り変わりのなかで多くの組織の形が提案されてきました。

 

最近でいえばフレデリック・ラルーが2014年にReinventing Organizations(進化した組織)で紹介した経営モデルであるティール組織があります。ラルーは組織の変革フェーズをred(赤)、amber(琥珀)、orange(橙)、green(緑)、tealの色別に区分しティール(青緑)がよいと説明します。

 

ティール組織はトップマネジメントや中間管理職が部下の管理を行わなくても、専門家や経験者の支援を受けながらスタッフが主体的に目的達成のための行動を起こす組織です。興味があれば調べて下さいね。

 

このような組織は「スタッフに自立を促す」考え方や一部の仕組みを取り入れたとしても、特殊な業種で成立するものであり、一般的には導入や運営が困難だと容易に想像できます。

 

さて、前述したように多くの組織がピラミッド型組織を運営しているので、ここでは同組織の傾向(課題)について議論します。

 

ピラミッド型組織では、各部署には自己利益優先、やセクショナリズムがあり、部署間には原則衝突があります。これは上司の思考や組織の文化に影響を受けるものですが、職員一人ひとりも同じ傾向をもっています。

f:id:itomoji2002:20220211121301j:plain組織に対する忠誠心というよりは人間のもつ身内を大事にするという考え方から来ています。周りの仲間を大切にする村社会や、日本の文化に影響を与えた儒教の思想が根底にあるのかもしれません(儒教では徳治主義をとり法律よりも徳を優先するため、論語のなかでは仮に父親が悪事を働いたとしてもそれを隠すのが立派な人間の行いと教えています)。

 

各部署に自己利益優先やセクショナリズムがあるため、結果として悪い情報は下から上に上がらず、有用な情報は上から下に降りづらいという傾向があります。

 

ただ単に報告や連絡を懈怠しているだけではなく、組織にとり悪いことを上司に報告して不利益を得たくない、また、トップからの中間管理職への話や指示は部下には一度に伝えず小出しにして自分の立場を優位に活用しようといった心理があります。そのことで迅速で間違いなく合理的な組織運営が行われづらくなります。

 

また、部署間には原則衝突があるために、仕事が部署間のどこかで止まり、その調整に手間取り仕事が蛇行しながら行われる傾向にあります。部署のリーダーやスタッフ間の好き嫌いや思い込み、人員配置やスタッフの対応や行動に課題があるなどの理由によるものです。

 

組織として上記の状況に介入し問題解決を行うとともに、何よりも組織一体となれるビジョンや戦略、決めたことを必ず行えるガバナンス、トップマネジメントのリーダシップによる、仕事の仕組みの見直しや評価・教育制度の整備が必要です。どの部署も協力してこのミッションを達成しよう、そのためには些末な感情や障害を乗り越え各部署が連携して成果を挙げようという勢いが生まれるからです。

 

自組織の形を振り返り、その各層にはどのような傾向(くせ)や課題があるのか考え、果たして現状の組織の形やマネジメントのあり方はこれでよいのかを見直してみる機会を持ちたいものです。

患者が目の前にいれば医療は成立する

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多くの病院で、理事長や院長に高い組織マネジメント(以下マネジメント)スキルをもて、というのは難しいことです。彼らは医師として十分に成果をあげ、いまの地位に存在しているからです。

 

トップマネジメントがマネジメントに長けていればどの病院でも大きく変わることができますが、現状で良しとしてきていれば何も変わりません。

 

もちろん、マネジメントに長けた理事長や院長もたくさんいます。彼らは興味や必要性に迫られてマネジメントを学習し、自ら経営者としての資質を身に着け、経験し、学びそして一流の病院経営を行うことができるリーダーとしてその地位を固めています。

 

しかし、その場合であっても、やはり側近に優れた事務長や副院長がいなければ成果をあげることができないケースもあります。

 

良い人を採用できるのは、運であるという経営者がいます。確かにとても優れたスタッフに出会うのは運もあると思います。ただ、実際には良い人材は病院やトップの運が引き寄せるものというよりも、なんとかしたい、もっと良い医療を行いたいというトップの思いが伝わり、自然とあるいは必然として、適切な人が集まってくると考えられます。

 

医療は「労働集約的知的産業」であるといえます。

 

人がすべてをつかさどり目標を達成します。仮に組織がなくても、設備がなくても、思いを持った医師やスタッフがいれば、何とか治療をしたいと願い、活動するでしょう。

 

東日本大震災のときの日本中から集まった医師が、同じく集まった看護師と連携しリーダーとなって、自然に皆で意見を出し合い、限られた時間のなかで最大の成果をあげたいと協力し、他のコメディカルとともに成果をあげていました。レントゲンもない、検査もできないなか、経験を活かし、仮説を立て、できる範囲で検証しつつ、診断を行い、そのときのベストの治療を続けていたのです。

 

医療人として、使命感に突き動かされ目の前の患者を助けることだけに注力した、尊い医師や看護師、コメディカル、事務職の人々がそこにいました。

 

医療は医師がいてスタッフがいれば、ある程度の成果を挙げることができます。いわんや医療機器があり、医師の診断のエビデンスがとれ、十分な薬剤や医材があり、滅菌された機材があり、道具があり、そして手術室があり麻酔医がいれば手術もできます。医療は組織マネジメントがなくても当然のように結果を出せるのです。

 

しかし、だからといってそれらの医療行為や医療周辺行為が持続できる経済合理性を持っている訳ではありません。

 

ガバナンスやマネジメント(システム)が脆弱だと、経営資源をうまく使えないことがあります。

  • 人を育成する、
  • モチベーションを継続する、
  • 時間や情報をうまく管理し合理的な医療を行う、
  • 無駄なコストを使わない、
  • もっとも有効な治療を行う、
  • 地域の環境変化に柔軟に対応する
  • 重点的な投資を行う、
  • 留保を行い、将来の処遇改善や投資に備える

ことができないのです。

 

結果、医療は行えても長い目で見ると組織を適切に維持することができなくなります。「当院は皆一生懸命に医療を行なっているから大丈夫」というトップの言葉は正しいことも正しくないこともあるのです。

 

医療が日々真面目に行われていることをもって医療資源を最大活用し、全体最適を得ていると勘違いしてはいけません。現場は素晴らしい医療行為を行っているにも関わらず、赤字になり病院運営が立ち行かなくなる組織が多いのはそのためです。

 

病院経営には、病院経営の科学があります。マネジメントには枠組みがあり、そのフレームワークに沿って運営が行われることが必要であり、それができて始めてヒト、時間、情報、モノ、カネがうまく使えることになるのです。

 

  • 病院全体の戦略や方針、事業計画立案や経営方針の提示、BSC等目標管理の展開や各種医療ツールの整備といった組織運営のためのあらゆる行動を計画し、誘導し、成果をあげるガバナンスによるマネジメント(組織マネジメント)
  • 業態固有のDPCならDPC、出来高なら出来高、地域包括なら地域包括、回復期なら回復期、療養であれば療養、精神であれば精神といった業態固有のマネジメント(業態別マネジメント)、
  • 医局、看護部、事務部、診療支援部のターゲットやブレイクされた部門別損益をベースとして各部署をまとめる各部門を管理するためのシステム(部門マネジメント)、そして
  • 改善をベースとした現場での業務の最適化の仕組み(現場マネジメント)、
  • 部署間の相互の連携がうまく進み、部分最適ではなく全体最適を目指す仕組み、対応(部署間コンフリクトマネジメント)

を徹底してそれぞれの目標を達成できるよう、マネジメントをしていかなければならないのです。

 

整理すると、病院はマネジメントがなくても医療を行うことはできます。しかし、懸命に動けば最大の成果をあげていると理解するのは正しくはありません。

 

財政逼迫、少子高齢化、人口減少、世界経済の減速、円安、可処分所得減少等、日本はとても厳しい医療環境を迎えています。

 

現場で日々発生するさまざまな問題にその都度対応するだけではなく、あるべき組織運営を行うために、病院には病院としてどのような経営のフレームワークやガバナンスがあればよいのか、そしてそれをどのように使い成果をあげていけばよいのか真剣に考え、不足するものを補っていく時期がきたと私たちは考えています。

 

どこまでやれば満足できるのか

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人は社会人として何かを行なおうと決めて行動したとき、どこまでやれば満足できるのでしょうか。

 

決めたことが完璧にできれば最大の満足を得られますが、決めたことの幅があるときには決めたことの下限で満足してしまうことがあるし、決めたことが「〇〇ができるようになる」、といった定性的なものであれば自分でラインを引き、ここでいいやと満足してしまうこともありそうです。

 

もちろん決めたことが十分にできなくても、ここまで頑張ったんだからできなくてもいいや、と自己満足により決めたことへの取り組みを止めてしまうこともあります。

 

こうして考えると「満足」はとても主観的なものだと分かります。定量化された目標や資格取得のように目標が明確ではない限り、どこで満足するのかは本人の意識の置き場所次第なことが明らかです。

 

私は、「自分の思いを達成したときが自分の成功であり、そこには主観的な満足が必要」と考えてはいますが、一方で少なくとも第三者から一定水準の評価を得られないかぎり満足してはいけないとも理解しています。

 

ただ、すべての決定事項に「高い客観的評価」を強要し枷にしてしまうと、とても息苦しくなります。とりわけ、あれこれトライして自分のやりたいこと、やらなければならないことの見極めを行うプロセスにおいて常に完成形を求め行動するのでは、息が続きません。

 

試行錯誤のなかで、この目標はここまででも良いが、これはやり遂げていこう。そして誰からも認められる力を付けようと判断し、主観的満足と客観的評価に基づく承認による満足(以下客観的満足)のバランスをとり行動するのが自然です。

 

なお、私は社会人として自立し思い通りに生きるためには、ここでは詳しく説明しませんが、

  1. 正しい仕事の姿勢(Correct attitude)
  2. 適切な行い(Appropriate action)
  3. 必要とされる人(a person Needed)

のファクター(CSN=キャン)を身に付けなければならないと考えています。1と2を忘れずに3になることを目標に行動すること大事ですね。

 

ここで1と2を身につけた3の「必要とされる人」はまさに客観的満足の結果であり、自分がこれだと決めたものについては、信念をもち力を付けて、ゴールまで諦めないでチャレンジすることが大切だと分かります。

 

やらなければならないことからやりたいことを見つけたり、始めからやりたいことがあれば、そのなかからこれはというものを決め最大の満足が得られるよう果敢に挑戦しなければならない理由です。

 

ルーチン業務への取り組みを怠らず、創造的な優先順位の高い取り組みについては自分の高い満足を追い続け、これだけは負けないという得意分野(比較優位)をつくることが社会人としての役割です。

 

理想は、好きなことを懸命に続け達成感を得つつ自信を持ってさらにチャレンジしていたら力が付いた、気付くと人から認められ「必要とされる人」になれていた、という主観的満足=客観的満足の状態でしょう。

 

現状での取り組みは、それぞれどこに満足水準を置くのかを考え、その時点で自分の好きなことは何か、やりたいことは何かを整理しながら、並行してそれらを進めつつ、これだ、これを突き詰めていこうというものがでてきたときには途中で投げ出さず、また適当なところで満足せず何かをやり切ること。

 

結果としてCANを目指し、主観的満足=客観的満足の状況をつくれるよう行動することが社会人として自立し思い通りに生きるポイントだと分かります。

 

トライしたけれど中途半端で終わってしまうことが多いなか、満足水準を高みに引き上げてチャレンジしていきたいと改めて思いなおしています。

愛をもって生きること

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随分前にシアタークリエで、「異人たちとの夏」という舞台を見ました。

演出家は「幼い頃死別したはずの、父母とそっくりな夫婦と出会う。そして、彼らとの交流の中に、無償の愛を発見していく。同時に、新しく現れた年下の恋人との間にも、深い愛情が芽生えるのを感じる。愛に包まれ、充足感に浸り、男はついに幸福の意味を知る。だが、男にそのことを教えてくれた彼らは……"異人"であった」と説明しています。


椎名桔平、内田有紀、甲本雅裕、池脇千鶴、羽場裕一といった役者さんだちの物語です。ストーリーがわからないと見えない話ではありますが私の感じたことをお話します。
  
人と人の間では、自分に対する相手の言葉や態度で何かを感じ、それに対して応え、それがまた相手の心に伝わり、それがまた…というようにコミュニケーションが行われます。

 

ひとつひとつの言葉や態度を大事にすることで、よい関係が築けますが、そこには愛が必要です。愛というのは相手のことを思いやること。
 
「誰かは、誰かが思い続けているかぎり生きている」と、主人公が言います。この言葉が口をつくまでにさまざまな出来事がありますが、自分を犠牲にしても人を愛することの大切さに気付いた彼の本当の心の発露でした。

異人というのは「あの世の人」という意味ですが、何度も感動するシーンがあり、本当に久しぶりに心が洗われました。

実はその前日に、織田裕二と天海祐希「アマルフィ女神の報酬」を観ました。こちらは、イタリアの名所をめぐり、美しい避暑地を舞台にするなど、きれいな映像で構成されていました。

しかし、大臣が独裁政権に資金を渡し多くの無実の人が亡くなったことや、それを隠蔽する日本政府のODAの在り方や外務省の大臣や奥さんの利便を図るシーンが印象に残り、感動という代物ではありませんでした。

 

日本経済が破たんしかけているなか、研修生である戸田恵梨香に「無駄遣いをするのが外務省」的な発言をさせるなど、ストーリー自体よりもその事実がすごく不快になる映画でした。

 

全てが事実かどうかは定かではなさありませんが、いかにもありがちな、リアリティのある話でどれだけ日本がダメな国なのかを再認識しました。

無心に楽しめるはずの映画の後味が悪かったのに対し、舞台はシリアスななかにも温かさがあり、とても救われた感じがしました。

 

劇場を出た後の夜の風は爽やかで、有楽町の街は、なぜかとても美しく穏やかににみえた記憶があります。

 

コロナ渦で久しく劇場に足を運んでいませんが、折に触れてこの舞台そしてコミュニケーションの大切さや愛(思いやり)のことを思い出します。