突然の訃報
契約会社の社長が、「救いだったのは思いのほか安らかな顔をしていたことだ」と話していた記事に安心していました。
ミャンマーで撃たれて亡くなった記者が、亡くなる直前に手を前に出して起き上がろうとしていた新しい映像がその後テレビで放映され、頭から離れません。
無意識のなかで手を出し誰かに最後の別れをしたのか、起き上がろうとしたのか、納得していたのか、遣り残したことがあったのか思い残す方が多かったのだろうと想像すると、とてもつらいです。
ところで中学の友人のF君が先日なくなったと別の中学校の友人から連絡がありました。あまりからだは強くなかったのですが、いつも明るい学級委員長でした。
背の順で前のほうに並んでいたF君は、のちに想像できない成長をとげて平均的な背の高さになりました。随分前に胃を全摘していたF君は仕事をしているときに気分を悪くし、そのまま入院。翌日亡くなったそうです。
私の傍を早くして通りすぎていったN君、会計士のO君、同じくM先輩、会計士になれなかった勉強仲間であり先輩のXさん。大学時代憧れの的であった美人弁護士のMさん…
悲しさは、いつかはそうなると人生わかったつもりでいても、比較的早く逝った彼らの何かし残した(そうでなければよいのですが)無念さを自分のことに置き換えるからかもしれません。
今、自分が亡くなるとしたら何を思うだろう。いつも考えます。
私が一番初めに出会った身近な死は、東京近郊の山の麓にある病院での父の死でした。私が14歳のときでした。父の生き様をよくみることができなかった私は、仕事のできる母の献身的な支えで成人し生きることができています。
思えば中学の授業中でしたが、なぜか父が亡くなったとちょうど同じ時刻に、胸騒ぎがあり時計をみた記憶があります。
最後のとき父は私に何を伝えたかったのだろう。もし、納得したうえの、そして私に対する激励であったとすれば、私もそうできるようになろうといまも思っています。